山中城跡御馬場曲輪上の休憩所からの富士山
当初は箱根旧街道西坂と並行する推定鎌倉古道を予定していた。しかし調べていくと展望もあまりよくなく見どころも少ない。そこで推定鎌倉街道はまたの機会に歩くことにする。今回は10年前に一度歩いたことのある箱根旧街道西坂をもう一度歩いて見ることにした。箱根旧街道西坂は旧東海道の箱根、三島間ですが現在の国道1号線と重なるところが何か所かあります。そのうち箱根峠付近は車道を歩くしかないため注意が必要です。これを避けるには元箱根港から三島行きのバスを利用するのがよいと思います。ただこのバスは1時間に1本程度しかなく始発も9時台です。参考:東海バス時刻表
小田原駅東口から箱根町行のバスに乗り元箱根港で降りる。バス停の前にバスターミナルがあり三島行の東海バスに乗り換える。発車して8分くらいの芦ノ湖カントリー入口バス停で降りる。国道1号の最高地点は箱根芦の湯付近で標高874mです。元箱根港へ行くバスの中から見えました。また箱根峠は849mですが芦ノ湖カントリー入口はそれより僅かに低く830mです。すなわちこの830mの地点から標高30mの三島まで800m下って行くわけです。芦ノ湖カントリー入口からバスが来た道を箱根峠方面へ100mほど戻ると左側に箱根エコパーキングがある。ここにトイレが設置されているので利用できる。箱根旧街道西坂では下に行くほどトイレが少なくなる。コース中でトイレを見たら出来るだけ利用したほうがよい。箱根エコパーキングからは山頂にロープウエー駅の建物が見える駒ケ岳とその左手に箱根の最高峰神山が間近に見える。
芦ノ湖カントリー入口バス停から箱根旧街道最初の入口は茨ヶ平
箱根エコパーキングから南西に芦ノ湖カントリークラブへの道を行く。やがて前方にゴルフ場のグリーンや木立が見えてくると、直ぐに茨ヶ平(ばらがだいら)の箱根旧街道入口がある。ここを入っていくと箱根八里記念碑や石仏の八ッ手観音像がある。またここに兜石があったようだが移設されており標識が残されている。
箱根旧街道 茨ヶ平(ばらがたいら)
慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。ローム層の土で大変滑りやすい道なので、最初は箱根竹の束を敷いたが延宝八年(1680)に、幅二間(約3.6m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを一里ごとに示す一里塚がつくられた。参勤交代や伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)国道一号線の敷設によって衰退した。このあたりは、い茨(いばら)が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平(ばらがたいら)という。
平成十一年三月 三島市教育委員会 (箱根旧街道茨ヶ平の案内板より)
八ッ手観音像
兜石(かぶといし) 兜石は接待茶屋跡付近に移設されていた。
箱根旧街道石畳
茨ヶ平箱根旧街道入口からは石畳の道だが凹凸が比較的少なく歩きやすい。途中に仮設トイレも幾つかあった。
花とは思えないオトメアオイの花
石畳の道の脇にカンアオイの葉が所々にあります。葉の模様は以前箱根明神ヶ岳から大雄山最乗寺(道了尊)へ下る途中で見たカンアオイと同じものでした。あの時は5月初めでカンアオイの花がありました。今回も花があるかなと思ってカンアオイの葉を起してみました。そのうちのひとつに茶色い花が付いていました。 カンアオイの仲間にはカンアオイとフタバアオイ、ウスバサイシンがあります。このうちカンアオイは常緑性で、フタバアオイとウスバサイシンは落葉します。日本にはこれらのカンアオイが50種類程度あり、さらに地域ごとに異なる品種が見られるようです。箱根や伊豆地方で見られるカンアオイはオトメアオイという種類のようです。箱根の乙女峠で発見されたからとか。葉は腎円形で長さは5~7cm、花期は5月~7月。ちなみに有名な徳川家の家紋のミツバアオイの紋はフタバアオイの葉を図案化したものです。
カンアオイは山地の樹の下や暗い場所に地べたに張り付いたように自生します。成長は驚くほど遅いと言われています。冬でも枯れないで青々と葉が茂っているためこの名が付けられたようです。
主に早春から春にかけて1個~数個の花を咲かせます。花の色は主に濃茶色や暗紫色で花びらは退化して無く、つぼ形のがく片から成ります。カンアオイの仲間の花はこのように非常に地味です。そして花の形は独特で奇妙です。このため隠れた愛好家も多くいるようです。またギフチョウの幼虫の食草としても知られています。オトメアオイ
雲助徳利の墓
民家が出てくると国道1号に出るので、すぐ近くの横断歩道を渡る。国道沿いに歩いていくと「農場前」のバス停がある。ここを過ぎ左手の旧街道入口から階段を下りていく。石畳の道になりしばらく歩くと右手に雲助徳利の墓が出てくる。コンクリートの道に変わり目の前に山中城跡の歩道橋が現れる。車道を渡って車道を進んでいくと箱井戸跡という標識があり、その池を見る。池には蓮の葉が一面に浮かんでいたが花は7~8月ごろで咲いてはいなかった。元の車道に戻り、更に先に進むと山中城跡の駐車場とトイレがあり宋閑寺も見えてくる。駐車場には観光バスや観光客の姿も見られる。宋閑寺を見てから車道を渡り、そば処の幟が立つ茶店(山中城跡案内所・売店)の左手から階段を登っていく。
史跡山中城跡 (国指定史跡)
山中城跡は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高五八〇mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正一八年(1590)三月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和四十八年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱先出丸(だいさきでまる)をはじめとした各曲輪の様子や架橋(かけはし)、箱井戸(はこいど)、田尻ノ池(たじりのいけ)の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀(しょうじぼり)や畝堀(うねぼり)の発見は、水のない空堀 (からぼり)の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお三ノ丸(さんのまる)跡の宋閑寺(そうかんじ)には岱先出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
平成八年二月 三島市教育委員会(山中城跡の案内板より)
山中城跡御馬場曲輪上の休憩所
ここは山中城跡の岱先出丸(だいさきでまる)という所で、御馬場曲輪の芝生を見ながら進むと休憩所があります。ここからきれいな富士山を見ることが出来ました。富士山の右手には今は珍しい火の見櫓もありました。ここで紅茶を入れパンやおにぎりで行動食をとります。三島大社前でうな丼を食べる予定なので食べるのはほどほどにしました。参考:三島市観光協会:山中城跡パンフレットPDF
山中城跡、御馬場曲輪(おばばくるわ、または、おんばばくるわ)
箱根旧街道石畳
再び車道の前に降りてそば処の茶店の左手から旧街道に入ります。ここの杉の木立や石畳は雰囲気がとてもいいです。やがて石畳が終わると再び国道1号に出ます。信号を渡った旧街道入口には通行止めの表示板がありました。何年か前から工事をしているようです。工事の期間や理由などは書かれていません。「箱根旧街道が工事のため通行止」とだけ書かれています。あとで調べたところ笹原新田と山中城跡間の国道1号のバイパス工事のようです。そのため笹原一里塚は見ることができませんでした。バイパス工事の全面開通は平成30年ごろになりそうです。開通すれば当然箱根旧街道も歩けます。箱根旧街道の通行止め解除を待っていくのも良し、待たないで行くのもまた良し。
参考:三島観光協会 箱根旧街道迂回について。国土交通省 山中バイパスのあらまし
箱根旧街道工事中のため車道の国道1号を歩きました
国道1号から見た沼津アルプス(中央が鷲頭山、その左が徳倉山)
通行止めの区間は迂回して国道1号を歩きます。雰囲気のいい石畳や、笹原一里塚を見れないのは残念です。そして迂回のために20~30分は余計に時間がかかると思います。ただ悪いことばかりではなく、富士山や沼津アルプスの展望も良くなりそれなりに楽しめました。
国道1号から見た富士山
国道1号沿いの見晴学園を過ぎてから右手に巨大な吊り橋が見えてきました。そして駐車場や真新しい施設があり出入りする車の交通整理もやっています。ここは最近出来た三島スカイウォークというところでありました。なんでも全長400mで歩行者専用としては日本一長い吊り橋だそうです。吊り橋の下は谷底で周辺は遮るものがなく、富士山を始めとして周辺の展望は素晴らしいと思う。この大吊橋を往復するだけや、ここを起点としてのウォーキングコースも設けられているようです。
参考:三島スカイウォーク
沼津アルプス全景
国道1号へのう回路がやっと終わると再び箱根旧街道へ入る。コワメシ坂は舗装道で周辺は住宅が建っている。それほど急でもなさそうだが、箱根旧街道コース中では最も傾斜がきついところだという。
愛鷹連峰(左)と富士山
三ツ谷新田を過ぎ車道から旧街道へ入る道を見落としてしまった。そのためそのまま車道を歩いていくと坂小学校が出てきた。富士山や愛鷹連峰が見えるところもあった。
六地蔵
市の山新田を過ぎると六地蔵というお地蔵さんが出てきた。六地蔵は地獄信仰の六界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)を表しているそうです。しかし実際には13体ありました。塚原新田で宋福寺があり入っていきます。ここにはトイレはありませんでした。更に先に進むと左手に伊豆フルーツパークの建物見えてきます。観光バスも何台か止まっています。伊豆フルーツパークではイチゴ狩りやメロン狩りもできるようです。観光客がそれぞれ手にそれらしいものを持って戻ってきました。伊豆フルーツパークには売店やトイレもあり少し休憩することにしました。参考:伊豆フルーツパーク
錦田一里塚
再び旧道に戻って進むと伊豆縦貫自動車道の上を通ります。初音ヶ原石畳遊歩道があり、その先に錦田一里塚がありました。柵に囲まれたこんもりとした塚には真ん中に大きなエノキの木が立っていました。エノキは風雨に強いため植えられたそうです。錦田一里塚を見てから標識に従って進むと箱根旧街道愛宕坂を下ります。
錦田一里塚 (国指定史跡)
江戸幕府は慶長九年(1604)、東海道をはじめ主要街道に並木を植えるなどして街道を整備した。その一環として一里(約4km)ごとに街道の両側に直径約10mの円形の塚を築き、その上に風雪に強いエノキや松を植え、これを一里塚と称した。
一里塚は大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠の賃金の目安、旅人の憩の場等、多方面に活用されていた。錦田一里塚は江戸日本橋より始まる東海道の二十八里(約112km)の地点にあり、松並木の間に道路をはさんで向かい合って一対残っており、旧態を保っていて貴重であるので国指定史跡となっている。
平成八年二月 三島市教育委員会(錦田一里塚の説明板より)
三島大社に近い大場川から見た富士山
いよいよ三島大社が近くなってきました。JR東海道本線の踏切を渡ります。踏切の警報がカンカンとなり長い貨物列車が通り過ぎていきました。少し歩くと大場川にかかる橋を渡ります。ここから大きな富士山が見えました。朝からここまで終始我々と供のように付いてきてくれました。それにしても三島から見る富士山は高いです。なにせこの辺りは標高20m位なので富士山の高みがもろに見えます。標高1,000mの所なら2,776mの富士山を見ることになりますが、ここからは3,756mの富士山が見えるわけです。
三島大社前のウナギ店、すみの坊
そして遂に三島大社前にやってきました。10年ぶりの三島大社です。この三島大社前にウナギ屋さんがありました。入ってみるとこじんまりとした店です。左の奥に小上がり、真ん中に4人掛けのテーブル席が3っつ、右にカウンター席がありその奥が調理場でした。午後3時近い時間だったのでテーブル席が一つ空いていました。桜エビの天ぷらを一つと並みのうな丼二つを注文します。先に桜エビの天ぷらが出てきて付け塩で食べるのでした。値段の割には普通の天ぷらで、それほどの感動はなかったです。天ぷらが食べ終わった頃、うな丼がやってきました。漆塗りのお椀に盛られたうな丼です。ごはんの量もかなりありウナギは一匹分載っています。流石に専門店の焼方でウナギの身はとても柔らかいです。美味しいのですが味が淡泊なような気がします。そのため25年ほど前ウナギが豊富な頃、1,500円で食べたウナギと比べるとちょっと物足りない感じです。ウナギが絶滅危惧種の現在ではやむを得ないのかも知れませんね。しかし並みのうな丼でもボリュームがあり充分満足しました。これで当分はウナギを食べなくてもよさそうです。スタート地点の茨ヶ平箱根旧街道入口で見かけた女性の二人連れが先客としてここの小上がりで食事していました。彼女たちが帰るのを見届けて我々も帰り支度をします。やっぱり人は似たようなことを考えるんですね!参考:すみの坊 三島大社前店
三島大社本殿
三島大社へは大きな鳥居の下をくぐって入っていきます。両脇の池には水がありません。どうやら池の掃除をしているようです。まっすぐ進むと舞殿(ぶでん)という建物があり、その奥に本殿がありました。本殿は江戸末期の1,854年に再建されたそうです。総欅造りで国内有数の規模だそうです。本殿の少し手前に樹齢1,200年ともいわれるキンモクセイの木がありました。昭和9年に国から天然記念物の指定を受けています。ほとんど朽ちかけそうですがまだ枝を伸ばして緑の葉を付けていました。キンモクセイに感心しながら境内の中を通って三島駅に向かいました。
参考:三島大社。三島市観光協会 ウォーキングコース
三島大社境内にある樹齢1200年のキンモクセイ(金木犀)
過去に行った静岡の山の記録です