大楠山山頂より富士山と金時山(左端、富士山直下は矢倉岳)
神奈川県東南端 の三浦半島には三つの丘陵地帯があります。南は武山(たけやま:200m)から富士山(三浦富士)。北には仙元山、阿部倉山、二子山(208m)、畠山などがあり三浦アルプスと言われています。そして三浦半島の中央部に位置するのが最高峰の大楠山(241m)です。今日は関東百名山の一つでもある大楠山を登ってみることにしました。京急線の安針塚駅は相模湾寄りですがそこから東京湾側の前田橋バス停までほとんど三浦半島を横断する形になります。歩行距離は12km弱です。
横浜駅で京急線の快特「三崎口」行に乗り3つ目の金沢八景で浦賀行に乗り換えます。初めて降りた安針塚駅は標高17mの相模湾に近い小さな駅でした。改札口を出ると目の前に交番があります。駅前には商店らしきものはありませんでした。左側にすぐガードがありこの下を通っていきます。ガードの先には公衆トイレもあります。歩ていくと途中右側に変電所がでてきます。駅から600mほど歩くと「大楠山、塚山公園」の標識がありT字路(写真)が出てくるのでここを左折します。道はかなりの勾配があるので登るにつれ周囲の風景がぐんぐんと見えてきます。
安針塚駅からの道を左折し坂道を登って行く
塚山公園までは急坂で車はほとんど通りません。途中車止めがあるところは直進します。(左側に標識があるのを見落として左折したら住宅地の行き止まり道でした。)標高差100mほどを登ると塚山公園に到着します。公園の入り口左側に公衆トイレがあります。石段を上っていくと左側が広場になっていて右側に大きな東屋があります。この東屋は休憩所でまずは一息入れます。安針塚を見るには階段を下り周回道路から長い石段を上って行きます。
塚山公園の三浦按針夫妻供養塔
按針塚には三浦按針夫妻の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる供養塔が並べて置かれていました。供養塔の脇には大きなタブの木(クスノキ科常緑高木)があり、周囲はフェンスで囲われています。三浦按針が亡くなったのは長崎県の平戸ですが、いろいろな出来事があり墓の所在は定かではないようです。そのためここは本来の墓ではなく供養塔ですが、大正12年(1923年)に三浦按針墓として国指定史跡となりました。
ウイリアム・アダムス(後の三浦按針)はオランダの5隻の東洋探検船団の1隻に乗船し1598年6月24日、ロッテルダム港を出航しました。出航後その内2隻は他国に拿捕され、1隻は航海を断念してオランダに引き返しました。残った2隻の内1隻は航海中に沈没してしまいました。ウイリアム・アダムスが乗船した残った1隻のリーフデ号だけが航海を継続しました。しかし食糧補給のために寄港した先々で病気や襲撃により次々と船員を失いました。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減ってしまったのです。そして1600年4月19日、リーフデ号は足掛け3年の過酷な航海の果てに豊後水道の臼杵(大分県)に漂着しました。しかしウイリアム・アダムスはじめ乗組員は自力では上陸できませんでした。そのため臼杵城主が出した小舟でようやく日本の土を踏んだのです。今の時代からは想像を絶するような命がけの航海だったんですね。情報が乏しく死に対する恐れが少なく、未知の世界に対する夢や憧れが強かったのだと思います。
按針塚を見てから周囲を歩くと富士見台と標識が出ていたので登ってみました。すると曇り空なのに思いもかけず雪をかぶった富士山が微かに見えました。高圧線や周囲の山に邪魔されているがそれでも頂上付近が見えました。歩き回って現在位置が分からなくなったので元の休憩所の方に戻ると、「大楠山」と「大楠山(石畳道)」の標識が出てきました。ここは石畳道ではなく大楠山の方へ向かいます。標識に従い歩いていくと石段を下って行くようになります。周辺は森に囲まれていてバードウオッチングする人もいました。折り返して更に下って行きます。下りきると高速道路の脇に出ました。道は車道となり高速道路の下をくぐっていきます。道なりに進むとT字路に突き当たります。ここを左折すると直ぐに歩道のある広い道に出ます。広い道を300mほど歩くと左に葉山・鳥ぎんという和食レストランが見えてきます。更に進むと信号があり手前に標識があります。大楠山へは直進を示しています。通常のルートではトンネルをくぐって先に進むようですが、我々はこの信号を右折しました。ここから先は阿部倉温泉まで大楠山の標識はありません。
国指定史跡 三浦安針墓
所在地 横須賀市西逸見町三丁目五十七番地 指定面積 1352㎡
指定年月大正十二年(1923年)三月七日
三浦安針は、本名ウイリアム・アダムスという英国人で、オランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、慶長五年(1600年)安針が乘ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷、慶長十年(1605年)には三浦郡逸見村に250石を与えられました。また、安針は造船の知識もあり、伊豆伊東で西洋帆船を建造しました。
安針は元和六年(1620年)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に供養塔が建てられました。二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、凝灰岩(ぎょうかいがん)製の右塔が安針、安山岩(あんざんがん)製の左塔が妻・ゆきのものです。
平成二十年(2008年)三月十五日 横須賀市教育委員会
市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 三浦按針夫妻墓
墓石は、江戸期の宝篋印塔で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。
三浦按針は本名をウイリアム・アダムズと言い、1564年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊に加わり、リーフデ号の航海長として1598年に東洋に向かいました。慶長五年(1600)、台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。
徳川家康は三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによります。この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョゼフとスザンナの一男一女をもうけました。家康の亡きあとは不遇となり、元和6年(1620)5月16日に平戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年57歳でした。この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家のご厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。毎年4月八日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。
阿部倉温泉へ行く途中の風景
信号を右折するとやがて道は下山川の橋を渡り川沿いを歩くようになります。信号から800mほど歩くと左側にフェンスに囲まれた広場が出てきます。ちょうど子供たちが野球をやっていました。公衆トイレも設置されており使用できます。この広場の先を左折します。次のT字路を左折します。急な坂道を登るようになり景色が開けてきます。やがて道は下り坂となり県道27号の車道に出ます。この信号の右方向に大楠山登山口のバス停があります。押しボタン式の信号を渡り、進んでいくと突き当りとなります。阿部倉温泉の道標があり左折します。ここからは左手に時折展望が開け里山の風景が見えてきます。まだ大楠山は見えませんが進行方向にあります。
阿部倉温泉の標識が要所にある
阿部倉温泉へ行く途中の風景
ひなびた風景を眺めながら更に進むと横浜横須賀道路の陸橋を渡ります。突き当りを左折します。右手に阿部倉温泉、湯ノ沢旅館が上の方に見えてきます。奈良時代からという由緒ある阿部倉温泉は一軒だけの温泉宿ですが今は休業中でした。この温泉宿は以前一旦廃業となりその後日帰り湯だけの営業となりました。そして今回はボイラー故障による休業となったようです。果たして今後は再開できるのか気にかかるところです。温泉宿の先を進むと突き当りとなり高速道路のトンネルが左側にありました。そして近くには公衆トイレも設置されています。通常のルートとはここで合流するようです。大楠山方面へはここを右折します。
平作川源流の沢沿いの紅葉
平作川は三浦半島で一番長い川です。大楠山にその源を発し三浦半島を東南に流れていきます。そして横須賀久里浜で東京湾に注ぐ総延長僅か7kmほどの小さな川なのです。その平作川源流ともいえる沢沿いの道を歩いていきます。今年最後の紅葉ともいうべき大きなカエデの木があたりを明るくしていました。三浦半島最高峰とはいえ大楠山は標高僅か241mの山です。そんな低い山にも関わらず沢の流れがあるというのは驚きでした。その大楠山に降り注いだ雨が透明な水となって静かに流れているのです。
平作川源流の石橋を渡る
沢沿いの道は歩きやすく整備されています。山道は平作川源流を離れて長い階段を登って行きます。途中5~6名くらいの女性だけの中高年グループとすれ違いました。沢沿いから尾根まで標高差80m位を登ります。尾根に達すると方向が変わり右手に葉山国際カントリークラブのフェンス沿いを歩くようになります。ゴルフ場のフェンス沿いの道が終わると道標があります。直進は「大楠山頂上250段」、左側は「大楠山」と示している。どちらに行っても登ることには変わりないのですが、ここはアプローチが楽そうな左側の「大楠山」へ向かいました。広い林道となり緩やかですが途中で「大楠山へ150m」の標識が出てきました。ここを登っていきます。やがて大楠山山頂に達しました。低山とはいえ中々登りがいのある山でした。
大楠山山頂の広場
明るい大楠山山頂ではいくつかのグループが昼の休憩をしていました。そして先ほどまで曇り空だったのが青空に変わってきたのです。展望台は後から登ることにしてとりあえず昼の休憩をします。スープ代わりに〇ちゃんのホットワンタンを分けて食べました。やはり寒空の下の熱いスープは美味しいです。そして青空がますます青くなり、吹く風は穏やかです。実は遥か昔、大楠山には来たことがあるのですが記憶は全くありません。その時の写真をみると展望台(現在の1番下の部分)らしきものが写っていました。
大楠山山頂から富士山と丹沢(右上部)
休憩が終わりいよいよ螺旋階段の展望台に登ってみます。展望台は1階部分に売店があり、その上がコンクリートの広い(10帖くらいか)展望台になっています。そして更にその上に黒い鉄製の螺旋階段となり最上部に丸い展望台が造られています。高さは地上10m以上はありそうです。展望台最上部に達すると吹く風が冷たいです。そしてその風や人の動きで展望台が幾分揺れるのです。
レーダー雨量観測所(左)と箱根(上部中央)と富士山
もともと樹木の少ない大楠山山頂ですが展望台に登ってあたりを見渡すとまさに360度の大展望なのです。ひと際目立つのは国土交通省レーダー雨量観測所の白い塔です。そして富士山は幾分もやっていますが左右に箱根連山と丹沢山塊を従えて堂々と聳えているのです。
横須賀市街と猿島と第二海堡(東京湾上方は新日鉄君津製鉄所)
東の方向には横須賀市街地と東京湾の猿島が近くに見えます。その上方には第二海堡があり、その右上方向には第一海堡と房総半島の新日本製鉄君津製鉄所が遠くに見えます。ちなみに海堡(かいほ)とは、東京防衛のため明治から大正にかけて造られた砲台を設置するための人工島です。千葉県富津岬側から神奈川県横須賀市側にかけて3つの海堡が建設され現在、第一海堡と第二海堡が残っています。
大楠山山頂の展望台
最上部の展望台を降り売店の上の展望台からも周囲を見てみました。富士山も見えますが最上部の展望台とは比較にならないほど見え方が違います。ただこちらは広いので安心して周囲を眺めることことができます。充分展望を堪能して地上に降り立ち出発の準備をします。売店の下が公衆トイレになっています。
大楠山山頂の二等三角点 標高 241.29 m。
国土交通省レーダー雨量観測所と展望台(右)
大楠山山頂を後にして前田橋バス停方面へと下ります。5分ぐらい歩いた所に国土交通省のレーダー雨量観測所があります。この観測所に設置されているレーダー雨量計は電波を利用して降雨の強度と分布を測定する設備です。そして半径200km~300kmの範囲まで観測を行うことができます。現在各所に日本全土を覆うレーダ雨量計が配置され精度の高い降雨観測が行えるということです。
この観測所に隣接した展望台に登ってみると先ほど登った大楠山の展望台や富士山が見えました。
大楠山から前田橋への山道
大楠山から前田橋バス停へは変化に富んだ山道らしい雰囲気が味わえます。特に急な下りはありませんが途中少しの登りがありました。山道が終わり住宅地に入ったら道なりに下って行けばバス通りに出ます。信号を渡ったところが新逗子(京急)~逗子(JR)行のバス停です。また前田川沿いには遊歩道が設置されハイキングコースになっていました。
安針塚駅~塚山公園~阿部倉温泉~大楠山~前田橋バス停のコース断面図
コースタイム 歩行3時間30分 距離11.5km 累積の登り下り±704m。
京急線安針塚駅9:50→10:15塚山公園(三浦按針墓~富士見台)10:45→(休憩10分)→阿部倉温泉前→12:45大楠山13:30→13:35レーダー雨量観測所展望台13:50→15:00前田橋バス停~新逗子バス停→京急新逗子駅