鎌倉・衣張山は源頼朝の言い伝えが有名ですが、それは京都の衣笠山の故事にならったものと言われています。京都・衣笠山(201m)で第59代宇多天皇(西暦887~897)が真夏の衣笠山に白絹をかけて雪の山に見立てて涼をとったとされており別名「きぬかけ山」と呼ばれています。どうやら源頼朝もその故事に倣ったようなのです。源頼朝(1147~1199)は妻の北条正子のため、夏の暑い日にこの山に白衣を張って雪景色に見立てて涼を楽しんだと言われています。そのため衣張山(きぬはりやま)と呼ばれるようになりました。
鎌倉駅東口を出ると5番バス乗場は右手の直ぐ近くでバスは既に待機していました。乗車して間もなくバスは発車し10分ほどの杉本観音で降ります。バスの進行方向20mほど先が杉本寺の入口です.
鎌倉・杉本寺の案内板より 鎌倉幕府が成立する500年も前の奈良時代(八世紀)に、行基が開いたと伝えられる鎌倉最古の寺です。行基は奈良の大仏造営への貢献や貧民救済の社会事業などで知られています。その後、光明皇后の寄進で本堂が建てられたと言われています。本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。坂東三十三観音霊場の第一番札所で、八月十日の縁日は参拝者でにぎわいます。
杉本寺の仁王像
杉本寺は鎌倉で最も古い寺で源頼朝もよく参詣したようです。
杉本寺の苔むした階段
拝観料を払い両脇に白い幟が立つ階段を登って行きます。苔に覆われた階段が出てきましたが通行止めになっていてその脇の階段を登って行きます。
杉本寺の本堂
登りきるとやはり幟に囲まれた本堂がありました。薄暗い本堂の奥に目を凝らしてみるといくつかの像が置かれていました。靴を脱いで上がれば目の前で拝観できます。このほかにも建物があるのではないかと思い本堂左手の坂を登ってみましたが何もありませんでした。元のバス通りまで下ります。「杉本観音」の次のバス停は「浄明寺」ですが、ちょうど到着したバスから20~30人の外国人が降りている所でした。
浄妙寺本堂
鎌倉・浄妙寺 当寺は稲荷山浄妙寺と号し、鎌倉五山第五位の寺格を持つ臨済宗建長寺派の古刹である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭溪道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。
寺名を改称したのは正嘉年間(1257~59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など名僧が多い。中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡。
バス停の脇に駐車場がありその前の参道の奥が浄妙寺です。立春を過ぎているので福寿草でも咲いているのでは思っていたのですが何もありませんでした。蝋梅はもう終わりで花といえば紅梅と白梅が咲き始めている程度でした。「浄妙寺」の近辺は「浄明寺」という住居表示になっています。実際に浄明寺というお寺はこの付近にはありません。なぜだろうと思っていましたが次のような事情でした。浄妙寺は鎌倉五山第五位に列する格式の高いお寺です。かつては広大な寺地を有し23個院の塔頭(たっちゅう)を有していたそうです。そのためこのあたりの地名を付ける際にお寺さんに遠慮して違う漢字(妙→明)を当てたのだそうです。現在でも付近一帯の住居表示となり昔の名残を残しています。
浄妙寺の庭園
浄明寺は私にはほとんど見るべきものはありませんでしたが、本堂のたたずまいと石庭が印象に残ったくらいです。バス通りに戻り杉本観音方面へ戻ります。最初の信号を渡って進むとそこが報国寺でした。境内に入り本堂の前を通ります。竹林の入口の所に拝観料の窓口がありました。ここでは竹林だけが有料になっているようです。拝観料を払って中に入ります。太い孟宗竹の竹林で中は薄暗いです。もっと広いのかと思っていたのですが20mぐらいのごく小さな竹林でした。これもちよっとあっけない感じでした。
鎌倉・報国寺の案内板より 足利、上杉両氏の菩提寺として栄えました。開山は五山文学を代表する天岸慧広(仏乗禅師)です。仏乗禅師は、中国より招聘された円覚寺の開山・無学祖元に師事し、のちに中国へ渡って修業した高僧です。開山自筆と伝えられる「東帰集」や自ら使用した「天岸」、「慧広」の木印は国の重要文化財で、鎌倉国宝館に保管されています。孟宗竹の竹林が有名で、竹の寺とも言われています。
報国寺の竹林
報国寺を出ると直ぐ左手に行く道があります。ここを歩いていきます。左側が高い崖になっていて崖の補修作業をしている所でした。道なりに進んでいくと十字路が出てきます。そこに下の写真のような標識があります。
衣張山への標識
標識は「平成巡礼道 衣張山へ15分」とあります。ここを標識に従い左折します。民家の間を進んでいくとやがて山道になります。周りは樹林に囲まれて日差しがないので薄暗いです。先ほどの標識の所から標高差100m近くを登ります。時間にして15分か20分くらいです。上の方が少しずつ明るくなって山頂が近いのを思わせます。ようやく登り着いたところが衣張山の展望地(北峰)でした。
衣張山北峰より由比ガ浜と稲村ケ崎。中央に江の島の展望灯台が見える
山頂は風が強く帽子を何度も吹き飛ばされました。若い男女が登ってきて挨拶をかわします。しばらく展望を楽しんでから衣張山北峰を後にします。
衣張山北峰より丹沢・塔ノ岳(中央左)、丹沢山(中央)、仏果山(右端)
北峰を過ぎて進むと更に登りがあり似たような山頂に達しました。スマホで国土地理院の位置確認をしたら三角点のある衣張山(南峰)でした。国土地理院の地図を見ると分かるのですが衣張山は南北二つの双耳峰になっています。北峰に着いたときはここが衣張山の山頂だと思っていたのです。どちらかというと北峰のほうが海はもとより丹沢方面も見えて展望が良かったです。
パノラマ台に向かう尾根道
衣張山を後にしてパノラマ台を目指して進みます。山道らしい雰囲気でなかなか感じがいいです。山道は長くは続かず10分ほど下ると左手に民家が見えてきました。ここがハイランドの住宅地のようです。ハイランドというだけあって標高80m位の高台です。かまくら幼稚園が左手に見え園児も見かけました。ここらあたりは富士山が見えるようでベンチも用意されています。更に進んで行くとテーブルベンチで中高年の男女10名ほどが座って休憩していました。ここら辺にトイレもあるようでしたが見落としました。舗装道は左にカーブしていきますが小道を真っすぐ行きます。右手にパノラマ台の立派な標識が出てきます。急な階段を5分ほど登るとパノラマ台でした。
パノラマ台
パノラマ台は木の手すりに囲まれた6畳ぐらいの狭いところでした。木製のベンチが一つあり中年の女性がベンチに座って景色を眺めていました。挨拶するとその女性は「今日は富士山が見えなくて残念ですね」といいます。そして立ち上がって去って行きました。青紫色のロングダウンを着ていたのできっとハイランドの住人なのでしょう。有難く席を譲っていただいて我々は昼の休憩にします。景色は衣張山とあまり変わりません。連れがおにぎりを手にしていると突然黒いものがバサッと我々の間を抜けていきました。連れが「いやだー」といって悲鳴を上げています。見ると鳥が飛び去って行きそして旋回しているのでした。トンビ(鳶)がおにぎりを狙ったのです。一瞬のタイミングが外れておにぎりは無事でした。何度も旋回しているのでおちおちできず立っておにぎりを食べました。例によって〇ちゃんのホットワンタンも美味しく頂きます。しつこく旋回しているトンビを眺めながらパノラマ台を後にします。後で思ったのですがトンビに狙われたとき傘を差せばよかったのです。傘を差せば餌が見えないためトンビは襲うことができません。元の標識の所に戻り確認すると名越切通しは細い道を直進するのでした。なんだかこの頃から空模様が怪しくなってきます。小粒の雨が降ってくる気配もします。だんだん薄暗くなり雨が降ってきたので傘をさして歩きます。
名越切通し
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、「吾妻鑑」天福元年(1233)8月18日に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。急峻な尾根を堀り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切跡(大切岸)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。現地案内板より
名越切通し(なごえきりとおし)は古道の雰囲気をそのまま残していました。人力で掘削した跡も明瞭に残っています。鎌倉の切通しは7か所あるということですがここは鎌倉と逗子をつなぐ切通しです。
名越切通し
切通しは山や丘陵を掘削して人馬などの交通を行えるようにした道のことです。
鎌倉の古道で切通しは、新編鎌倉志(江戸時代・水戸光圀編纂)により鎌倉七口(七切通)と名付けられました。鎌倉の地形は北部と東西に丘陵地帯があります。北部の最高峰は通称鎌倉アルプスと言われる大平山(159m)があります。東には衣張山(120m)が、西には源氏山(93m)の丘陵地帯があります。これらの丘陵地帯を抜けるのに切通しが造られました。現存する主な切通しは、極楽寺坂、大仏、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝比奈、名越、で鎌倉七口(かまくらななくち)と呼ばれています。このうち名越切通は鎌倉と逗子・三浦をつなぐ、かっての主要路です。1966年(昭和41年)4月11日に「名越切通」として国の史跡に指定されました。指定範囲は切通路部分(逗子市小坪)およびまんだら堂やぐら群エリアです。そのため、いまだに中世鎌倉の雰囲気を残している趣きのある古道です。
名越切通し
切通しの一部には地層がはっきり見えるところもありました。
まんだら堂
切通しを見てから元の道を戻ります。まんだら堂は閉鎖されていましたが、門の網から中がのぞけました。土の四角い構造物をやぐらと言うようですが、このやぐらが幾つも見えました。このまんだら堂ではやぐらを墓として利用していたようです。
お猿畠の大切岸(おさるばたけのおおきりぎし)
お猿畠の大切岸は、長さ800m以上にわたって高さ3~10mの断崖が尾根に沿って連続する壮大な遺構です。従来、鎌倉幕府が三浦一族の攻撃に備えて鎌倉の守りを固めるため、切通の整備とあわせて築いた防衛遺構だと言われてきましたが、平成14年の発掘調査で、大規模な石切作業の跡だということが確認されました。これによって鎌倉防衛の役割が完全に否定されたわけではありませんが、鎌倉では14~15世紀頃の建物基礎などに切石を大量に使用しており、ここはそのころの石材生産地だったと考えられます。なお、お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮がこの付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものです。現地案内板より
まんだら堂を門扉越しに見てから更にパノラマ台方面に戻ります。大切岸を見落としてしまったようなので確認です。そうすると砂利を敷いた広場に「お猿畠の大切岸」の案内板がありました。ここから尾根道の下に大切岸がありました。パノラマ台から歩いてきて尾根道の下にある大切岸を気付かなかったのです。大切岸は100m位あり更にその先にもあるようでしたが先に行くのは止めました。これだけ見れば十分だったからです。それにしても不思議な遺構です。外敵を防ぐための壁、または石切り場の跡などの説はありますがなんとなく納得できません。見た感じではその両方が当てはまるのかも知れません。ただ私にはここだけが単に地層が現れただけのように見えました。
大切岸を見てから法性寺の墓地の間を通って逗子方面に下って行きます。法性寺の通用門は日中だけが通行可能で夜間は閉鎖されるようです。下って行くとJR横須賀線の線路沿いの道を行くようになります。岩殿寺に行くべく左折し次の十字路に岩殿寺の案内板が出ていました。しかし最初の3寺と似たようなものかと思い見るのを取りやめます。なんでも源頼朝が参拝していた寺なのですが興味が薄れてしまいました。あとは久木の住宅地を通り逗子駅に向かいます。線路わきの道路を歩いた先にJR逗子駅の入口がありました。京急の新逗子駅へ行こうと思ったのですがJR逗子駅を通らないといけないので止めました。JR逗子駅からは宇都宮行の電車に乗り横浜駅で乗り換えました。
杉本観音~衣張山~パノラマ台~名越切通~JR逗子駅のコース断面図
コースタイム 歩行3時間 距離8.1km 累積の登り358m 下り-395m
鎌倉駅東口(バス)9:51~杉本観音10:05→杉本寺10:35→浄妙寺10:55→報国寺11:10→11:35衣張山展望地11:50→衣張山→12:15パノラマ台12:45→名越切通し、まんだら堂、大切岸→14:10JR逗子駅