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東京の山・神奈川の山・関東周辺の山を夫婦で「気ままに山歩き」登山・ハイキング・トレッキングの山行記録です。

湯河原梅林~幕山湯河原梅林~幕山

湯河原梅林~幕山(626m) 
平成29年(2017)2月28日(火)2名

     

湯河原梅林最高地点からの梅林風景

湯河原梅林~幕山~大石平~湯河原梅林のGPS軌跡

 

小田急線の小田急相模原駅で女性客同士のトラブル(喧嘩)があった影響で小田原駅着が15分程度遅れる。その上パスモを紛失(後で出てきたが)したりして更に遅れてしまった。湯河原駅に着いて駅の出口から左方向へ向かい4番乗り場から湯河原梅林行の臨時バスが出ている。土日曜は混むので平日を選んだのだが、それでもかなりの込み具合だ。全体的に女性客が多いように感じる。バスは次々出発し後から次のバスがやってくる。結局梅林へ着いたのは最初の予定より25分間の遅れであった。

臨時バス停付近からの湯河原梅林と幕山

 

臨時バス停は梅林の300mほど手前で降りる。ここからは梅林の全景と幕山が見える。標高626mの幕山は箱根火山の一部と言われており、約15万年前に形成された溶岩ドームです。ロッククライミングの名所でもありますが、柱状節理の岩壁が山腹を取り囲んでいます。遠くから見るとそれが舞台の幕の様なので、幕山と名付けられたと言われています。しかし梅林直下から見る幕山はそんなふうには見えません。

湯河原梅林へ登って行くと幕山登山口が出てくる

梅林へ向かうと途中にチケット売り場があり、そこで入園券¥200を購入する。幕山公園の休憩所では足湯の準備をしていた。広場の片側には売店が軒を連ねている。梅林へ登って行くと幕山登山口の標柱が出てくる。園内は散策路が縦横に走っている。梅を見ながら「ハイキングコース」という目印を確認して登って行く。

湯河原梅林の散策路

梅を見るだけの人も最高地点まで行く人がいるので行きかう人が多い。登山口から10分ほど登ると標高280mの湯河原梅林最高地点だ。ここからは通ってきた梅林が眼下に見える。今日は満開日を狙ってやってきたのだが、なんとなく開花の勢いが足りないように見える。11年前の3月8日、ここから見た梅林はもっと雲のように見えた。湯河原梅林は平成8年に初公開されたそうです。それから21年経ったわけで、確か15年ほど前は入園料も取らなかったように思う。梅の木も当然寿命があるので樹勢ということもあるのだろう。樹齢と共にだんだん開花状況も変化するものだろうか?そんなことを考えながら眼下の梅林を眺めていた。


幕山へ登って行くと湯河原市街と真鶴岬(左)が見える

梅林を見れば後はひたすら登るだけだ。梅林最高地点は280mだから山頂まで350mほど登ることになる。残念なことに天気予報とは裏腹に曇空となっている。しかし登山道の周辺は樹林が茂っているわけでもないので曇天の割には明るい。途中で湯河原市街と真鶴岬が見えるところがあった。山道のところどころにアセビ(馬酔木)の木がある。高さ3mほどで馬酔木の木としては大きい。その枝の先端に白い釣鐘状の馬酔木の花が咲き始めていた。

幕山頂上付近はカヤトが多い

登って行くと登山道の風景が変わってきた。灌木がなくなりカヤトが多くなってきた。登りも緩やかになってきた。もう山頂が近いなと思ったら人声が聞こえて幕山山頂であった。

緩やかで丸い幕山山頂

幕山山頂は緩やかで丸い広場のようになっています。広さは直径20~25m位でしょうか。今日は平日でしたが50人ぐらいの人が思い思いにカヤトの上に座って昼の休憩をしていました。残念ながらテーブルベンチはありません。それなので敷物を用意してくるといいでしょう。私などは座ると立ち上がるのが大変なので携帯の椅子を持ってくればよかったと思いました。


大石ヶ平(大石平)への標識

幕山山頂を後にして南郷山方面へと向かいます。直ぐに山頂周回コース800mとあるのを左に見て進みます。下り坂を500~600mほど歩くと左側に大石ヶ平の標識が出てきます。ここを左折して大石ヶ平に向かいます。最初は樹林帯の下りをしばらく歩き、西に方向が変わると箱根笹の道になります。

箱根笹の下りが連続する

よく整備されており箱根笹は刈り取られて歩きやすい道です。前方には標高564mの城山が高く見えています。周囲の景色が変わってきたと思ったら大石ヶ平にでました。

新崎川に掛かる橋がある大石平

大石ヶ平は何とも平凡なところでした。林道を横切る沢に橋がかけられています。橋を渡ると大石ヶ平の標識がありました。ここからは林道を歩いていけば湯河原梅林に出られます。


湯河原梅林へ戻る途中にある鍛冶屋山の神

湯河原梅林に向かう林道わきに鍛冶屋山の神が祭られていました。岩をくりぬいてその中に小さな祠が置かれています。湯河原には鍛冶屋と名が付くところが多い。鍛冶屋という町名はもとより鍛冶屋バス停、鍛治屋橋、鍛冶屋不動尊、鍛冶屋会館などがある。この地では平安時代中期ごろ(960年前後)の鉄滓(スラグ:製鉄の残りかす)が発見されています。その昔この地で古代製鉄が営まれていた証拠でしょう。新崎川の川砂に多く混ざる砂鉄を利用して鉄器や刀鍛冶などが盛んだったといわれています。そのため鍛冶屋という地名が多いのだと思います。更に進むと幕山が徐々に姿を見せてきました。梅林に到着すると散策路に登り歩きます。10分ほど歩くと幕山公園に到着しました。売店を一通り見てから臨時バス停に向かいます。バス停に到着する前にバスが発車しました。ですが間もなく臨時バスの臨時のバスがやってきて定刻前に出発します。

湯河原駅に到着してから駅前の信号で道路を渡ります。急な階段を下ると茶色の商工会館の建物があります。この道を左に真っすぐ行きます。信号のない道路を何か所か渡るので注意が必要です。広場(公園)を右手に見て進みます。信号のない道路を渡ると前方に何人かの人が待っているのが見えました。飯田商店(ラーメン)に到着したのが2時40分でした。店前のベンチで待っていた一人も中に入ります。女性スタッフが我々を案内してくれます。食券を購入してからテーブル席へ案内されました。カウンターやテーブル、厨房も真新しくてピカピカです。男性スタッフが3名ほど厨房でラーメンを作っていました。醤油ラーメンを頼んだのですが鶏のスープは黄金色をしていました。黄金色のつるつるした麺にチャーシューが2枚のっています。そしてシナチクは刻んだものでなく1本の長いものでした。麵の上には三つ葉が何本かのっています。値段は¥850円ですから安くはないですが、随所にこだわりが感じられました。これだけのこだわりをするからこの値段になるんだなと想像できます。カウンターの中年のお客はドンブリのスープを両手で飲み干した後、更につけ麺らしものを食べていました。この人はそれだけここの麺が気に入っているんでしょうね。私はスープをほとんど飲みましたが、塩分を気にする連れはほとんど残していました。「ごちそうさま」と言って店を出ます。スタッフが一斉に「ありがとうございました。」と声を掛けてくれます。ちょうど閉店の3時になるところでしたが、男性客2名が入ってくるところでした。

湯河原駅前の土肥實平(どひさねひら)夫妻の銅像

湯河原駅前に戻る途中の街中で何かどぶ臭いにおいがするな~と思ったら温泉の硫黄のにおいでした。湯河原駅前広場の真ん中にある銅像を撮影しに行きます。源頼朝かなと思っていたのですが、鎧兜に身を固めた土肥實平の銅像でした。この銅像は何故か駅を背にして海の方を見て立っています。というのも銅像の主の土肥實平は源頼朝の開いた鎌倉の方を向いて立っているのです。そしてその妻は夫を見守るようにして座っています。妻が膝に抱えている物は「しとどの窟」に潜む源頼朝主従に差し入れた食糧のようです。
土肥實平(どひ さねひら )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(神奈川県足柄下郡湯河原町や真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していました。湯河原駅の北200mほどの所にある城願寺は土肥實平が創建したとされる曹洞宗の寺院です。土肥實平の居館はこの城願寺や現在の湯河原駅辺りにあったとされています。そのため区画整理により湯河原駅の南部には土肥1丁目~4丁目まで町名が残されています。

建久3年(1192年)源頼朝は数々の戦の後、全国を平定し征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を成立させました。それから遡ること33年、源頼朝は平治元年(1159年)の平治の乱に敗れ伊豆国の蛭ヶ小島(小島と言っても海の島ではなく伊豆半島の川の洲だったようです)に流されていました。源頼朝は治承4年(1180年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たします。伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った後、相模国へと軍を進めます。8月23日には石橋山に布陣しますが大庭景親らの平氏軍に敗れ土肥郷椙山の山中(しとどの窟)に逃れたといいます。石橋山で敗れた源頼朝を椙山に導いたのは土肥郷を領していた土肥實平でした。そして主従7名(土肥實平も入っています)で「*しとどの窟(いわや)」に潜む源頼朝に食糧を届けたのは土肥實平の妻だったといいます。その妻の名前は不明ですが「源平盛衰記」の記録によれば「 土肥の女房 」。吾妻鏡によれば「 土肥の妻 」と出ています。 土肥の女房は非常に賢く姿を変え人目を忍んで湯河原から、源頼朝やその家臣達に食糧を運んだといいます。 また源頼朝達が真鶴より舟で発てば、三浦の一族に合戦の推移と現状を伝えました。これにより源頼朝一行が三浦に立ち寄った際にも 問題なくすべてが順調に進んだと言われています。 このように土肥實平とその妻は源頼朝の命を救った恩人であり、鎌倉幕府成立の影の立役者と言っても過言ではありません。因みに「しとどの窟」より12年後に鎌倉幕府は成立しました。この時土肥實平は既に死去していたと思われます。そしてその3年後に土肥實平の妻は後家尼として源頼朝に面会したと吾妻鏡に記されています。*しとど(鵐・巫鳥)とはホオジロ・アオジ・ノジコなど小鳥の古名で源頼朝が洞窟に入る際に、しとどが飛び立ったことからこの名が付けられています。しとどの窟は幕山の南に見える城山の中腹にあり、城山ハイキングコースの一部にもなっています。

土肥實平夫妻の銅像を見たあとは駅前の土産物店でいくつか買い物してから駅のホームに向かいました。

画像

湯河原梅林~幕山~大石平~湯河原梅林のコース断面図

コースタイム 歩行3時間(散策他含む) 距離8km 累積の登り下り±548m
湯河原駅(臨時バス)10:30~湯河原梅林臨時バス停10:45→11:13梅林最高地点→12:10幕山12:40→13:25大石平→13:45湯河原梅林→散策路→14:06臨時バス停14:15~14:30湯河原駅→14:40飯田商店(ラーメン)15:05→15:15湯河原駅。


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