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東京の山・神奈川の山・関東周辺の山を夫婦で「気ままに山歩き」登山・ハイキング・トレッキングの山行記録です。

熱海・十国峠~岩戸山~伊豆山神社熱海・十国峠~岩戸山~伊豆山神社

熱海・十国峠~岩戸山(734m)~伊豆山神社
平成29年(2017)5月12日(金)2名

     

岩戸山への尾根道、灌木のトンネル

十国峠~岩戸山~七尾団地~伊豆山神社のGPS軌跡(クリックで拡大)

地形図ルート確認
国土地理院の地形図には岩戸山から伊豆山神社に至る最短距離のルート(記号①から入るルート)が表示されている。しかしインターネットでの記録を調べてみるとこのルートは歩かれていない。そこで何故なのか今回の山歩きで確認してみることにした。上の地図で①の分岐を現地で確認したところ「通行止め」の表示があり入れなかった。また②の分岐では「この先通り抜けできません」の表示があった。やむなく大周りとなる保養所群や七尾団地を抜ける車道を歩いて伊豆山神社に到着した。ただ車道を歩きたくない場合はバス(時間帯により1時間に2本程度)が通っているので利用できる。

アプローチ
熱海駅の改札を出た左手にバスターミナルがある。バスターミナルの2番乗場が十国峠方面の元箱根行である。バスは市街地や「お宮の松」「サンビーチ」「来宮神社」など熱海の名所前を通って坂道を登って行く。そして「十国峠登り口」で降りる。ここは既に標高665mで十国峠へはケーブルカーで標高差100mほどを3分で登る。

十国峠は太古の時代、伊豆と本州の衝突以降にできた湯河原火山という古い火山の一部です。日金 (ひがね) 山ともいい熱海市と函南町を結ぶ峠で標高は774m。名前の由来は旧国名で伊豆、駿河、遠江、甲斐、信濃、相模、武蔵、上総、下総、安房の十の国が見渡せたことに依ります。現在の静岡県、山梨県、長野県、神奈川県、東京都、千葉県に当たります。峠の名が付いてますが、いわゆる鞍部ではなく山頂です。

箱根・十国峠ケーブルカーの開業は昭和31年(1956年)、5年後の昭和36年(1961年)に島倉千代子の「十国峠の白い花」がヒットしました。
十国峠の白い花(YouTube) 作詞・石本美由紀 作曲・宮田東峰 唄・島倉千代子

1 
旅の乙女の 悲しい恋に
雲も泣いてる あかね空
ああ 箱根に残る 思い出を
こころに唄う 風の声
夢よ さよなら 十国峠
2 
スカイラインの 観光バスに
君と揺られて 越えた丘
ああ あの日の恋は この世から
はかなく消えた 遠い虹
夢よ さよなら 十国峠
3 
伊豆の旅路も 日暮れの中に
消えて淋しい 峠道
ああ さまよう頬に 散りかかる
涙のような 白い花
夢よ さよなら 十国峠 

十国峠からの箱根駒ヶ岳(右上)

十国峠ケーブル駅を出ると十国峠(日金山:ひがねさん)は緩やかな草原上の台地である。西方向には低いながらも特異な形をした沼津アルプスが、そしてその右には愛鷹連峰が薄っすらと微かに見える。北方向には箱根駒ケ岳と神山が間近に見える。肝心の富士山はというと愛鷹連峰と箱根神山の間に見えるはずだ。だが不思議なことに今日は晴れているのに見ることが出来なかった。ここから富士山まで直線距離で39kmほどだが霞のために見通しが悪く視程が遮られているのに違いない。

箱根神山(左)と駒ヶ岳(右:ロープウエー駅が見える)ズームで撮影。

十国峠から直線距離で北方向に12kmほどの箱根。最高峰の神山(1438m)と駒ヶ岳を合わせて箱根山ともいわれる。

沼津アルプス

十国峠から直線距離で西方向に15kmほどの沼津アルプス。左から大平山、最高峰の鷲頭山(392m)、少し離れて徳倉山、更に香貫山と続く。 15kmでこの程度なので25kmの愛鷹連峰は微かに見える程度、そして39kmの富士山は全く見えない。


玄岳(くろたけ)

十国峠から直線距離で南方向に5kmほどの玄岳。熱海市、田方郡函南町、伊豆の国市の3市町にまたがっている標高798mの山で熱海市の最高峰。

源実朝の歌碑

源実朝(みなもとのさねとも)(1192年-1219年)の歌碑
鎌倉幕府の第三代征夷大将軍で和歌を藤原定家に学んだ。私家集(別名鎌倉右大臣家集)「金槐和歌集」。
源実朝は供と共に二所詣のために箱根峠を越えていました。二所詣とは毎年正月に将軍が恒例行事として伊豆山権現と箱根権現に参詣することです。
(原文)箱根の山をうち出でてみれば、波の寄る小島あり。「供の者、この海の名は知るや」と尋ねしかば、「伊豆の海となむ申す」とこたへ侍りしを聞きて、(次のように詠みました)
「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」
この歌は源実朝が22歳のときのものと言われ、沖の小島とは「初島」の事だろうと思われます。
歌碑は歌に詠まれている沖の小島(初島)が見える場所に建てられています。

十国峠ケーブル駅を出て右(南方向)に進むと緩やかな草原の尾根道を歩くようになる。途中で源実朝の歌碑を見て600mほど歩くと分岐が出てくる。右が姫の沢公園入口でアスレチックがある。左が広い道路で日金山霊園の入口である。岩戸山へは直進して山道を歩く。5分ほど歩くと日金山東光寺の境内の中を通るようになる。灌木のトンネル(ページトップの写真)をくぐり、石仏(下の写真)を見て進むと左手に宝篋印塔がある。岩戸山への尾根道には並行して送電線が走っている部分がある。各送電鉄塔には点検路がありそこからは箱根方面が見える。

宝篋印塔そばの石仏


岩戸山山頂より熱海方面

しばらくの歩きで岩戸山に到着する。岩戸山山頂にはベンチが置かれており熱海方面が俯瞰できる。ここで簡単な昼食をとり休憩もそこそこに歩き始める。今日の目的の一つに地形図のルート確認がある。岩戸山から15分ほど歩いた伊豆山神社への近道の入口は閉鎖されていた。再び通常ルートの尾根道を下って行く。40分近く歩くと突然山道が終わり車道に出た。二つ目の地形図のルート確認がこの場所だ。車道を右に進むと直ぐに下る階段が見える。そこには「この先通り抜けできません」の表示板が付けられていた。

子恋の森(こごいのもり)の散策路

近道を断念して昭文社の山と高原地図の一般ルートを歩く。昭文社の地図では分かりにくいので地形図を印刷して持ってきた。地図を片手に車道を歩く。バス通りなのでバスも通りかかる。保養所群を抜け七尾団地の脇を通りやがて子恋の森の散策路を歩く。子恋の森からは岩戸山ハイキングコースに下って伊豆山神社に向かう。

子恋の森の由来
この森は「古々比(ここひ)の森」「古々井(こごい)の森」または「子恋の森」といわれ、昔から歌にも詠まれた伊豆三勝のひとつでした。清少納言の枕草子に「杜はこごひ」とあり古来より名高く、ほととぎすの名所であるこの森を詠んだ歌は数多くあります。NHKの大河ドラマ「草燃える」の原作者永井路子氏は小説「北條政子」に、この地での源頼朝と北條政子とのロマンスが描かれています。
熱海市中心部より北約2キロメートルの伊豆山地区、伊豆山神社の裏山にあり、東西約350メートル、南北約250メートルの公園で、伊豆山神社奥の院境内地を借用した公園で、清少納言の『枕草子』の中でも紹介されています。熱海市ホームページより

伊豆山神社の鳥居

ようやく伊豆山神社の赤い鳥居が見えてきた。本殿に参拝してからしばらく休憩する。


伊豆山神社本殿

伊豆山神社
本殿は、相模灘を望一望に望む、海抜170メートルほどの地点にあります。境内は歌枕に名高い伊豆の御山、こごいの森の一部で、約40000坪の広さがあります。この場所は、かつて上宮と呼ばれていました。山道の階段を下って海抜50メートル弱の地点には下宮の跡地があり、さらに伊豆浜に下ると走り湯があります。また、海抜380メートルほどの山中に本宮があります。伊豆の御山は、日金山や岩戸山に連なり、伊豆・相模・駿河の三国にまたがる広大な神域に要です。

伊豆山神社はかつて伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山、走湯山と呼び親しまれてきた、強運守護、福徳和合、縁結びの神様です。
祭祀の創なりは遥か上古に遡り、本殿に祀られる木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、『走湯山縁起』が応神天皇の御世に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に飛来し祀られたと伝える伊豆大神の御神影をあらわしています。
その神威の源は、湧き出る霊湯「走り湯」です。走湯権現とはこれを神格化した呼び名で、伊豆の国名は湯出づる神である当社の神徳に由来します。
神威を被るところは、沖合に浮かぶ初島をはじめとする伊豆の島々、伊豆半島、共に二所と呼ばれた箱根や、富士山に及びます。後白河院御撰『梁塵秘抄』に「四方の霊験所」の一つとうたわれたように、平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せ、顕密神道を学ぶ名高い道場となりました。
熊野信仰とも結びつき、全国に末社が祀られています。
平安時代後期、この伊豆山に修行して富士登拝を重ね、富士上人と呼ばれた末大上人は、鳥羽上皇をはじめ貴族と民衆に勧進、富士山に一切経を奉納する偉業を達成しました。伊豆山から富士につながる修行の道は、そののち平治の乱によって伊豆国に配流された源頼朝が、北条政子とともに当社に深い信仰を寄せ、当社の加護のもとで平家を打倒し、鎌倉幕府を樹立して征夷大将軍となるに至る、いわば東国王権神話とも呼ぶべき歴史の舞台になります。鎌倉将軍の参詣で二所詣の聖地となった当社は、威光を輝かし、格別の尊崇を集め、戦国時代には後北条氏、江戸時代には徳川将軍も崇敬して興隆がはかられました。武家が誓いを立てるときの起請文には、誓詞証明の社として、当社の名が必ず連ねられています。
そうした神徳を讃え、鎌倉三代将軍源実朝が参詣の途に詠じた和歌は『金塊和歌集』に収められています。平安時代の女流歌人として名高い相模や鎌倉時代の阿仏尼も、参詣して百首和歌を奉納しました。その伝統は、仲秋の名月に熱海市が主宰する伊豆山歌会に受け継がれています。
明治維新の神仏分離令により伊豆山神社と改称されてからも、伊豆大神の神威は絶ゆることなく、大正3年1月13日には皇太子であられた昭和天皇、昭和55年9月12日には皇太子浩宮徳仁親王殿下がご参拝になられました。参考:伊豆山神社ホームページより 。

伊豆山神社参道の階段

マンションより熱海海岸の眺望

伊豆山神社からは階段の参道を下り伊豆山神社前バス停に下る。ここから車道を歩いて知り合いのマンションに寄る。マンションからの眺めは素晴らしく熱海港が一望のもとだ。車でお宮の松まで送ってもらい、すぐ前の熱海サンビーチを散策する。サンビーチは長さ400mほどの砂浜だが南国の雰囲気が漂う熱海周辺が見渡せた。この後熱海駅まで歩き、熱海駅前の平和通り名店街でアイスクリームを食べてから帰途についた。

お宮の松

「お宮の松」の由来
お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものです。
この松は、江戸時代前期(1645年頃)、知恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれております。
この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていました。
明治三十年(1897年)から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものです。このことから、大正八年(1919年)熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立されました。
この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか、「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。
また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めています。
昭和二十四年(1949年)、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだしました(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ三百年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約二メートルの場所にありました)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。
その結果、五十数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏より寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大なご協力により、昭和四十一年(1966年)現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものです。
「お宮の松」の樹齢は、平成十三年(2001年)現在でおよそ九十五年、添松はおよそ七十五年になります。(現地案内板より)

貫一お宮の像

貫一お宮の像
金色夜叉の主人公、間貫一は第一高等中学校に通う貧乏学生でした。貫一の許嫁だった鴫沢宮(お宮)はある時、大富豪の息子に見染められ求婚されます。そして両親のすすめで貫一と別れることになる。貫一はお宮の旅先の熱海まで追いかけてきてそのことを問い詰めます。そして「来年の今月今夜、この月を僕の涙で曇らせてみせる」「月が曇ったなら、何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」と言い放ち、許しを請うお宮を足蹴にして去っていきます。金色夜叉のクライマックスともいうべき、この場面をブロンズ像にしたのが「貫一お宮の像」です。なかなかインパクトがある像です。

金色夜叉と熱海(以下は現地案内板より)
明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説 金色夜叉は、明治三十年一月一日から五年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。
ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮(しぎさわみや)がカルタ会の席で銀行家の息子富山唯継に見染められた。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一(はざまかんいち)がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌
熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り
が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったことは申すまでもありません。
金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日 来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!
再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりにもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくことでしょう。
紅葉は三十七歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成されたのであります。
熱海市では毎年一月十七日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。
貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立三十周年の記念に、昭和六十一年一月十七日熱海市に寄贈したものであります。
平成元年五月吉日 熱海ロータリークラブ

熱海サンビーチの砂浜

熱海サンビーチ
青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル群、ヤシの並木通り・・・外国の高級リゾートに似た雰囲気のビーチ。夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所です。 早朝には水平線からのぼる朝日がビーチや街を染める美しい景色を見ることができます。夜になると、世界的な照明デザイナー石井幹子氏が手がけた日本初のビーチのライトアップも毎日行われ、幻想的な景色が楽しめます。参考:熱海観光協会 あたみニュースより

十国峠~岩戸山~七尾団地~伊豆山神社のコース断面図

コースタイム 歩行2時間45分 距離9.2km 累積の登り369m 下り-992m
熱海駅(バス)9:18発~十国峠登り口(ケーブル)10:05発~10:08十国峠10:35→日金山東光寺(10分休憩)→11:30岩戸山11:50→車道→七尾団地→13:50伊豆山神社14:25~(徒歩・車で熱海海岸散策)→熱海駅

過去の岩戸山の記録
H24/03/03 熱海・十国峠~岩戸山~湯河原


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