秦野弘法山公園・権現山からの富士山、手前は松田町のゴルフ場
秦野駅北口を出ると駅前道路沿いに大きな川が流れています。水無川です。上流には大倉の秦野戸川公園の風の吊橋、更には塔ノ岳、行者ケ岳、三ノ塔等の山が源流となっています。駅前道路を右折して最初の平成橋を渡ります。平成橋を渡ったら右折します。
市街地からも大きな富士山が見える
いかにも由緒ありそうな豆峰という古い豆屋の前を通ります。後ろを振り返ると連れがいません。どうしたのだろうと思って、きょろきょろして周りを見まわしますが居ません。さてはと思って豆屋を見ると薄暗い店の中で買い物をしている様子です。やれやれと思って振り返ると街の中から大きな富士山が見えました。
豆峰商店(なかしんHPより抜粋)
創業90年余年、水無川沿いに位置し、昔懐かしい風情の店構えの落花生の老舗、豆峰商店をご紹介。
「昔ながらの伝統の味をかたくなに守り続ける」と語る4代目高橋豊一社長が、丹沢山系の麓、落花生の産地として有名な秦野の農家で契約栽培した落花生を、伝統の技と永年の経験で培った職人技で煎る・味付けし、袋詰めまで全て手作業でこだわるがゆえ、品数も7種類として評判の品々を保っている。
車道沿いにある弘法山公園入口
二つ目の信号「新常盤橋」を渡り左折します。「河原町」の信号を越え左前方に「カラオケ本舗・まねきねこ」の看板が見えてくると弘法山公園入口は直ぐです。弘法山公園入口から水路沿いを歩きます。
弘法山公園(秦野市観光協会HPより)
浅間山(せんげんやま)、権現山(ごんげんやま)、弘法山(こうぼうやま)の3つの山一帯を弘法山公園と呼び、県立自然公園にも指定されています。春には、2000本以上の桜が咲き誇り、桜の名所としても有名で、平成6年度には「かながわの花の名所100選」に選ばれています。他にも弘法山公園では、アジサイ、ヤマユリなどが咲き、四季折々の美しさがあり、ハイキングや散策に最適です。参考:弘法山公園。
浅間山・権現山への登り口
登り口から浅間山・権現山へ向かいます。標高差約90mの登りです。階段は整備されて登りやすいです。途中から富士山や箱根、市街地が見えます。登山道の傍らには水仙が咲き始めています。
権現山展望台より、富士山と左端が箱根金時山、富士山右側最初のピークが高松山。
緩やかな浅間山へ到着しました。富士山や丹沢高松山方面が良く見えます。浅間山で景色を眺めてから緩やかに下って行くと車道を横切ります。途中に蝋梅の木が何本かあり黄色い花を付けていました。権現山には更にここから標高差60mほどを登ります。わりと急な階段ですがゆっくり登って行きます。展望台の下からは左に緩やかに登って行くと平らな広い権現山に到着しました。まずは最初に展望台に上って眺望を楽しみます。今日は360度雲一つない天気です。相模湾に浮かぶ大島や伊豆半島、箱根連山、富士山、眼下の市街地、丹沢、大山などです。日曜日なのでそこそこ人が多いですが、ベンチも多くあるので座ってコーヒーを入れて飲みました。30分ほど休憩してから権現山を後にします。権現山からは広く長い階段を下ります。下りきると広い道になります。この道は馬場道といい権現山と弘法山を結ぶ尾根道になっています。昔周辺の農民が草競馬を楽しんだことでこの名が付けられました。馬場道の両側には桜並木があり桜の時期には桜のトンネルとなります。
関東の富士見百景(弘法山公園展望台)秦野市HPより
弘法山公園は、四季を通じて多くのハイカー(毎年20万人以上)が訪れます。権現山の山頂には、別名「千畳敷」と言われている広場があり、富士山や丹沢の眺望と桜の名所として、市民、県民の憩いの場として親しまれています。また、地域のボランティア等により、清掃活動などが自発的、積極的に行われている場所でもあります。展望台は、昭和25年に弘法山公園が、「神奈川県新八景」(神奈川県、神奈川新聞社主催)に選ばれた際に建設した見晴台が老朽化したことに伴い、21世紀の幕開けとともに、新たに設置されたものです。展望台の二階からは、360度の雄大な視野が開け、丹沢山塊や相模湾、三浦半島まで遠望できますが、何と言っても秦野盆地を眼下にした富士山の姿は美しく、山頂を訪れたハイカーの心を奪うものと思われます。
弘法山公園展望台からの眺望
標高243.5メートルの山頂に設置した2階建ての展望台からは、遮るものもなく、富士山を背景とした秦野市の市街地を望むことが出来ます。
権現山展望台より富士山
権現山展望台より箱根連山。右端は金時山
You Tube 1分間動画 子供が「ゴージャス」の声。大きい画面で見る
権現山展望台より大山
権現山付近より湘南平を見る
弘法山の鐘楼
馬車道が終わり弘法山の入口からはまた階段の登りになります。それほど長い階段ではなく途中に公衆トイレもあります。弘法山は権現山と違い眺望は良くありません。山頂は広くはないですが記念写真する人で賑わっていました。
弘法山(wikipediaより)
弘法山(こうぼうやま)は、神奈川県秦野市東部にある標高235 mの山であり、丹沢山塊の南端に位置する。隣接する権現山、浅間山とともに弘法山公園となっている。地元では、これらの山をまとめて弘法山と呼ぶことも多い。
弘法大師がこの山で修行を行ったとされる故事に由来する。山頂には釈迦堂、鐘楼、乳の井戸がある。
ハイキングの入門編というべき山で、権現山頂からは秦野市街、平塚市街や相模湾、天候が良い日には江ノ島、横浜ランドマークタワー、さらに運が良ければ新宿副都心のビル群や房総半島までが眺められる。江戸時代には既に「弘法大師の祀られる山」として信仰の山として知られていた。日露戦争の勝利を記念して当時の大根村青年団が桜を植樹してからは桜の名所ともなった。かながわの景勝50選、かながわの花の名所100選、神奈川の探鳥地50選に選ばれている。春には隣の権現山とともに花見の人々が多く訪れる。山麓には「綿羊の里」がある。
弘法山の弘法大師像
釈迦堂(しゃかんどう)現地案内板より
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳(けいがくえいほう)はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木像のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風被害を被った。長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
経塚 釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山(きんぷせん)に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で 経石も散乱していた。
甕 口縁部が楕円形をし、直径68センチ、深さ75センチ、腹部から急に細くなっている。
経石 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12センチ。 その他陶製の灯明皿が出土している。 秦野市
弘法山釈迦堂の裏から山道を下って行きます。最初は木の根のある急坂ですが下りきると緩やかになります。尾根道を歩いていくと左手には富士山が木の間越に見えます。次の分岐点で人だかりがしていました。近づいてみると地元の人がミカンを売っているのでした。1袋10個以上は入っていそうなミカンが200円です。連れがまたまたミカンを3袋も買いました。露店のおばさんがびっくりしています。1個100円の小さな白菜も買いました。上客だと思ったのでしょう、おばさんが少し傷んだミカンを3つおまけしてくれました。買い出しに来たんじゃないんです!だけど、これが楽しみなようなので私のザックにミカン袋が3つ入りました。買い出しが終わってずっしりしたザックを背負って尾根道を歩きます。善波峠に到着しました。ここからは鶴巻温泉に向かいます。
吾妻山への尾根道
善波峠へは何回も来ていますが、いつも大山方面へ向かいました。今日は初めて吾妻山から鶴巻温泉に向かいます。もう利用しそうにもないラブホテル群を左手に見て歩きます。緩やかな起伏の雑木林の尾根道です。紅葉の時もきれいだろうなと思いました。155mピークの分岐点を右に曲がって下って行きます。ピークだと思ったところに吾妻山の標識はなく、更に少し下ったところに標識がありました。吾妻山からは富士山や大山は見えません。湘南平方面が木立の間から見えるだけです。
吾妻山(現地案内板より)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は東国征伐に三浦半島の走水(はしりみず)から舟で房総に向かう途中静かだった海が急に荒れ出し難渋してしまいました。そこで妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)は「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり無事に房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中相模湾・三浦半島が望めるところに立ち今はなき弟橘比売を偲ばれ
※「あずま・はや」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています。 環境庁・神奈川県
※ちなみに「あずま・はや」は「わが妻よ!」の意味です。
弘法山ハイキングコースを示す昭和初期頃の石柱標識
鶴巻温泉へ下る分岐点の石柱道標に秘められた歴史!(赤字は石柱に刻印された文字)
石柱正面 左 弘法山ニ至ル 弘法山ハイキングコース
石柱右側 比々多村 善波ニ至ル
石柱左側 下ル 鶴巻温泉ニ至ル
石柱背面 光鶴園
鶴巻温泉の発祥は1914年(大正3年)住民が飲料水を求めて井戸を掘ったところ25℃位の地下水が湧出したことに始まります。 1918年(大正7年)平塚園が温泉旅館として開業しました。
当時は大山詣りの旅人が主な宿泊客であったようです。ここは交通事情が悪く馬車か人力車で平塚駅から来るしかない不便な場所にありました。 ちなみにJR平塚駅から鶴巻温泉まで距離でおよそ10kmです。徒歩なら2時間半程度掛かったものと思われます。平塚園は関東大震災により建物が倒壊ししばらくは休業状態が続きました。
小田急線が1927年(昭和2年)に開通し間もなく光鶴園(こうかくえん)が開業します。 1929年(昭和4年)に平塚園が再開業しその後1937年(昭和12年)に陣屋と改称されます。
それから50余年、平成の初めには10数軒の旅館やホテルが存在しました。 その頃は駅前に浴衣姿の宿泊客やコンパニオンをよく目にしたものです。その後はホテルや旅館が激減します。
光鶴園・鶴巻温泉会館は1999年(平成11年)に廃業しました。 2018年(平成30年)現在の旅館は陣屋、大和旅館、梵天荘の3軒だけです。廃業した温泉旅館跡地の多くは分譲マンションへと姿を変えたのです。
弘法の里湯は2001年(平成13年)にオープンした秦野市営の日帰り温泉施設です。以前ここにあった光鶴園ホテル・鶴巻温泉会館の跡地の一部を利用しています。源泉は地下50mから湧出する秦野市1号泉です。
弘法の里湯のすぐ手前に由緒ある大きな石灯篭があります。 かっての温泉旅館ホテル「光鶴園」の名が刻まれています。 参考:秦野市弘法の里湯
そして吾妻山から鶴巻温泉に下る分岐点の石柱に刻まれた光鶴園の秘められた歴史!光鶴園は小田急電鉄が経営の一環として土地を用意して、東京の料理旅館の女将に経営をまかせたのが始まりです。光鶴園の名称は当時の小田急電鉄創業者で社長の利光鶴松(としみつつるまつ)の真中の2文字を使用したものです。光鶴園はその当時は現存の陣屋と並んで鶴巻2大旅館と呼ばれました。あの分岐点の石柱標識は光鶴園が弘法山や大山への登山客のために昭和初期に設置されたものと思われます。以来90年ほど経つわけですが、石造りは矢張り長持ちしますね。各地の街や山に残された石仏、石碑、丁目石(1丁目=109m毎に置かれた石柱:町目石、丁石、町石とも言う)など、その一つ一つに秘められた歴史があるんだなと感じました。
吾妻山からの降り口(登り口)。東名高速道路前から振り返ったところ。
吾妻山から古い石柱道標のある分岐を右折して下ると直ぐに東名高速道路前の車道に出ました。東名高速のトンネルをくぐり住宅地を抜け、陣屋旅館の前を通り商店街を抜けて鶴巻温泉駅に到着しました。駅前のラーメン屋に行こうとして探しましたが閉店してありません。そこで弘法の里湯の中にある鶴寿庵というそば屋に行きました。
鶴寿庵には14年前にグループで来ています。その時は弘法の里湯でお風呂を出てから蕎麦を食べようとしたら、混んでいたので外の鶴寿庵で食べました。つまり里湯側と外の通り側に店があり以前は店の中で行き来できるようになっていました(今は行き来出来ません)。そこで今日は風呂へ入らないので外の通りの店で鍋焼きうどんを頼みました。中の店が混んでいるので少し時間がかかると言われました。30分後に鍋焼きうどんが来ました。鍋の蓋を開けるとまだぐつぐつと煮えています。ふうふうしながら食べます。いろいろ具が入っています。ネギ、春菊、タケノコ、シイタケ、たまご、海老などです。しこしこした腰のある中太うどん。つゆは出汁がよく効いています。香り高い春菊、とろりとした半熟卵、下味が付いているシイタケ、ぷりぷりした大きめの海老天。値段はやや高めですが、それなりの味で満足しました。
コースタイム 歩行2時間25分 距離7.2km 累積の登り303m 下り-379m
小田急線秦野駅9:15→9:40弘法山公園入口→10:16権現山10:45→10:57弘法山11:06→11:29善波峠→12:08吾妻山12:17→12:43鶴巻温泉駅。