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東京の山・神奈川の山・関東周辺の山を夫婦で「気ままに山歩き」登山・ハイキング・トレッキングの山行記録です。

丹沢・大野山丹沢・大野山

丹沢・大野山(723m) 
平成30年(2018)4月22日(日)2名

     

旧共和小学校前からの富士山

大野山登山口~地蔵岩コース~大野山~谷峨駅のコース(クリックで拡大)

大野山といえば牧場があることで知られた山である。そして牧場があるためか山頂近くまで車で行ける。そんな大野山に行ったのは確か14年ほど前の秋であった。この時は十名近いグループで丹沢湖バス停から登った。途中に熊山(667m)という山があるコースである。実際には熊山を通らず巻いていく。大野山は山頂付近のゆるやかで大らかな山容と秋の花の多さ。丹沢湖などが見渡せる展望の良さが印象に残っている。だがそれ以来大野山には登ったことはない。その理由は山頂近くまで車で行けることだろう。ひたすら汗を流して山頂に着いても車で来た人が楽しそうに宴会などをやっている。なんとも興覚めがしてしまう。しかし時は経ち時代も変わり自分の状況も変わってきた。昔行った展望の良さと手軽さを思い出して登ってみようと思っていた。昨年の秋は天気が悪かったり予定が入ったりして行けなかった。今年も桜の咲く4月上旬に行こうと思っていた。今度も天気や都合が悪く延び延びになる。本当は空いている平日に行こうと思っていたのだ。だが次週に伸ばすと天気が悪くなる。急遽予定を早めてバス便を利用して行ってきた。

小田急線新松田駅北口に大野山登山口への乗場がある。西丹沢行と同じ1番乗り場だ。このバス便は土・日祭日のみの8時30分発の1本しかない。季節が季節だし多分混むんだろうなと思っていた。しかし予想に反して乗客は我々を含めて3名だけであった。もう一人は50代くらいの男性である。バスは山北駅、高松山入口、大野山入口(平日の場合は西丹沢行に乗りここで降りる)を経て大野山登山口に到着した。通ってきた車道のすぐ脇に広場がありバスはそこに停まった。大野山への登り口は国土地理院の地形図とは明らかに違うようである。バス停の近くには標識は無くどうやって行くのだろうと思い車道に出て辺りを見回す。と、そこへ地元のおばあさんがやってきた。「大野山登山口はどこですか?」と尋ねると「すぐそこですよ」といって前方を指した。バスが来た道を進行方向に100mあまり行くと右に登る舗装道がでてくるのであった。それが下の写真である。

登山口

 

「この先 道幅狭し普通車の通りぬけできません」の看板が建てられている。実際にはこの道は軽自動車も途中から通行止めになるようである。写真左の道を行くと大野山山頂付近のイヌクビリ駐車場に行ける。

登り始めぼろぼろに朽ちた標識があった

最初は急な登りで民家の脇を登って行く。地形図ではこの辺の集落は「鍛冶屋敷」となっている。古い朽ちた大野山ハイキングコースの道標があった。

いたるところにシャガが群生している

道脇の土手の上や道路の下の林の中にもシャガ(射干)がびっしりと群生している。「シャガってアヤメに似ているな」。と思っていたら矢張りアヤメ科の花だった。花期は4~5月ごろで人家近くの森林や木陰などやや湿ったところに群生する。学名に(japonica)と付くがかなり古い時代に日本に入ってきた中国原産の帰化植物だ。

旧共和小学校付近の茶畑

シャガが咲く林の中の舗装道を20分ほど登ると突然民家が出てきた。こんなところにと思うほど小さな集落があった。民家の人が車に乗って出ていく。車が行った道は最初のバスが通ってきた道に続いているようだ。そしてそこに目が覚めるような風景があった。摘み取り前の茶畑だ。この辺り(地形図では古宿)はほとんどがお茶の兼業農家のようだ。神奈川県農協茶業センターと連携して足柄茶として生産加工している。足柄茶は神奈川県西部の箱根、丹沢山麓一帯で栽培されているお茶である。今では相模原市(旧津久井郡)、南足柄市、小田原市、秦野市、愛川町、山北町、松田町、湯河原町、真鶴町、開成町、中井町、清川村でお茶が生産されており総称して「足柄茶」と呼んでいる。通年では茶摘み作業は5月上旬からなので正に旬の茶畑が見れたわけだ。茶畑を過ぎると小学校が出てきた。山北町立共和小学校とある。


旧共和小学校

旧共和小学校が閉校(廃校)となってから7年だという。校舎やグランドの様子では閉校したとは思われない感じである。今にも生徒たちが飛び出してきそうな気もする。校門脇には少年像や二宮尊徳像が残されいる。下記は廃校当時のタウンユースの記事である。
タウンユース 足柄版 掲載号:2011年3月12日号 山の学校 137年の歴史に幕
山北町立共和小学校が3月26日に閉校式
山北町の大野山のふもと、標高331メートルに校舎が建つ「山北町立共和小学校」(皆瀬川275、下澤豊校長)。社会の産業構造の変化などにより地域の子どもの数が減り、この3月31日をもって137年の歴史を終えることになった。
共和小の児童数は平成14年度頃には15人前後だったが、19年度には10人となり、以降減少の一途をたどり、今年度は在校生が6年生3人だけとなった。新1年生が当面入学しないことなどから、町では昨年11月、学校統廃合の一環で共和小の閉校を決めた。
同校で最後となる卒業式が3月23日に挙行された後、3月26日には町や地域、学校関係者ら約170人が出席し閉校式(9時30分?)と閉校の集い(10時40分?)が行われ、最後の思い出の一時を過ごす。
共和小学校は明治7年に皆瀬川鍛冶屋敷で開設。大正3年に現在の場所に新築移転する。昭和9年には在校児童が最多の121人に。昭和22年4月、共和村立共和小学校となり共和村立共和中学校を併置する(児童数90人、生徒数44人)。昭和30年に町村合併により現在の山北町立共和小学校に改称された。
歴代46代目となる校長の下澤さんは「閉校を聞きつけ、年配の方々が母校を懐かしみ訪ねてきて下さっています」。「閉校は寂しいことですが、卒業した子どもたちには学校を心のよりどころ、心のふるさとにしてほしい」と思いを語る。同校では「閉校式には多くの卒業生に来てもらいたい」と呼びかけている。

旧共和小学校の現在は「山北町立 共和のもりセンター」という子どもたちの体験教室の出来る宿泊施設となっている。地域に小学校が無いということは若い人が住みにくいということを意味している。子供が出来て小学校に通うようになったら、1時間もかけて他地区の小学校に通うことが出来るだろうか?昔ならいざ知らず答えはNO!だ。だから小学校がなくなることは地域の存続をかける一大事なのだ。
「山北のチベット?」(それほどでもないと思うが)とも言われる共和地区(旧共和村)の住民は200人ほどである。地域内唯一の学校、共和小学校が閉校になり 「将来この地域はどうなってしまうのか?」「地域の火が消えてしまうのか?」大きな課題を抱えた共和地区の「NPO法人 共和のもり」。

旧共和小学校前からの富士山

旧共和小学校前からは絶景の富士山が見えた。現地で見たのは目の前に飛び込んでくるようなこんな富士山の姿である。共和小学校の歴史の137年間、子供たちはこんなにも素晴らしい富士山の姿を見ながら通っていたのだ。校門や校舎を見ていると富士山を見ながら学校に通う当時の小学生の姿が想像できる。

旧共和小学校付近からの大野山

小学校の横には公衆トイレも設置されていた。更に歩いていくとチェーンソーの音が聞こえてきた。伐採作業かと思いながら進むと、炭焼きに入れる木を切っているのだった。男女3人がかりで木を窯に入れる作業をしている。これは「NPO法人 共和のもり」の活動の一端のようだ。道を更に進むと右手に地蔵岩ルートの登り口が出てきた。「登り口 大野山ハイキングコース 地蔵岩ルート」と書いた表示板がある。登山口から30分、ここで初めて山道を登っていく。地蔵岩というのはこの登り口付近にある岩のようだが確認できなかった。コース上の崖などの注意個所には手すり等も付けられておりよく整備されている。山の新緑はかなり進んでいてこれといった花はなく白いウツギが咲く程度だ。


稜線直下の長い階段を登る

緩やかなコースを新緑を見ながら歩いていくと、急にあたりが開けてきた。前方の上方にはカヤトの稜線があり遠く人の姿が小さく見える。そして長い階段が出てきた。

大野山稜線直下の階段

標高差は約100m位だろうか?天空に登るような階段だ。そして長い長い階段の登りが始まる。私は割とこういうのが好きだ。何しろ先が見えているので登るのが励みになる。といっても休み休みだが。階段の上部に達したと思ったらまだ先に階段が続いていた。そして、ようやく大野山の稜線に到着した。

大野山の稜線から西丹沢(上方)

草原の稜線からは丹沢湖からの熊山コースと思われる山(手前)と西丹沢の盟主檜洞丸と同角ノ頭が見える。丹沢湖は熊山に隠れてここからは見えない。


檜洞丸(左:1601m)と同角ノ頭(右:1491m)

稜線には電柱が立ち電線も通っている。稜線上の舗装された道を左に向かう。右側(北側)に車が数十台停められそうな駐車場があり簡易トイレも設置されている。ここがイヌクビリだろうか。ここは十字路になっていて左(南)に下ると最初の大野山登山口バス停に至るようだ。イヌクビリに車が数台停まっていたが、ここから山頂に向かったのだろう。ところでイヌクビリとは何とも恐ろし気な地名だ。昔、このあたりにヤマイヌが出没して人を襲うようになった。村人は怖がり山仕事にも行けない。そこで深沢地区(イヌクビリより南に1kmほど)に住む大野という人がひそかに罠を仕掛けヤマイヌがかかるのを待った。数日して罠にかかったヤマイヌをくびり殺したという。ヤマイヌ(山犬)はニホンオオカミの別名だとされる。かってニホンオオカミは本州、四国、九州に分布し、1905年(明治38年)1月に奈良県で捕獲されたものを最後に絶滅したとされる。従ってこの話は1905年以前の話なのだろう。1905年(明治38年)といえば日露戦争があったり、アインシュタインが相対性理論を発表した年である。大野山の由来もオオカミを退治した大野さんからきたものかも知れない。参考:山旅イラスト通信

大野山山頂一帯は1968年(昭和43年)から神奈川県立大野山乳牛育成牧場として利用されてきた。しかし県財政の改善のため2012年(平成24年)ごろから廃止が検討されていた。そして2016年(平成28年)3月末に県営牧場としては廃止された。その後は牛舎やまきば館なども民間業者(門屋食肉商事)が借り受けて運営されている。「大野山かどやファーム・まきば館」では畜産に関するパネルや旧牧場風景写真なども展示しているそうだ。要は神奈川県の財政難で県営牧場が廃止されたのだ。これは玄倉の丹沢湖ビジターセンターなどが廃止されたことにも通じていると思う。

桜の木陰もある大野山山頂

イヌクビリから緩やかな登りの舗装道を6、7分歩くと大野山山頂だった。草原になっていて大きな桜の木が何本かある。桜は既に終わっていて名残の花がいくらかある。ここでコーヒーを入れ軽い昼食をとる。周辺には木がなくて遮るものは草丈のあるススキぐらいだ。富士山がぽっかり空に浮かんでいる。しかし昼時でもありやや霞んでいる。やはり旧共和小学校前で見た富士山は別格だった。

大野山山頂より丹沢湖、中央上方は畦ヶ丸(1293m)

大野山山頂からは丹沢湖が見える。橋が二つ見えている。左側の橋は永歳橋で右の橋が大仏大橋だ。永歳橋の左側に浅瀬入口バス停、右側に丹沢湖バス停がある。ここからは丹沢湖全景ではなく中央部だけが見えている。そして湖の上部にはごつごつした畦ヶ丸が見えその左に薄く見えているのは甲相国境尾根の大界木山(1246m)のようだ。東屋もあるが桜の木陰はそよ風が吹いて涼しい。トイレは電気も水道も来ているので山とは思えないほど綺麗だ。しかも手洗いの水も出る。1時間ほど景色を眺めたり休憩したりしてから山頂を後にする。

下山路での樹木風景

谷峨駅への下山路は草原やカヤトの原だ。展望は良いが今日のように気温が高い日は非常に暑い。しばらくの下りで樹林帯に入ってからようやく一息つけた。最初の林道を横切り少し行った先に東屋がある、地元の農家が置いたと思われる梅干しなどの無人売場があった。梅干しや加工品などが350円とか450円とか無人販売にしては高くてしかも半端な数字だ。小分けにして100円とか200円にすれば売れるのにな~と思う。二つ目の林道を越えたところにトイレがある。ここから更に下ると車道に出る。ヘアピンカーブの車道を下って行く。後ろを見ると上の方に東名高速道路が見えた。な~んだ東名高速の都夫良野トンネルの上を降りてきたのか。更に下って行くと物凄い大音響で音楽が聞こえてくる。ワゴン車を路肩に停めてドアを半開きにして、50代くらいの男性が音楽を聴いているのだった。そばを通る時横目で見たら陶酔したように目を閉じていた。懐かしい音楽だ。ポールモーリア グランドオーケストラの「オリーブの首飾り」だった。それにしても年齢と合わないなと思った。何しろ43年も前の古い曲だ。しかし今聞いても名曲であることは確かだ。ポールモーリアの代表作には「恋はみずいろ」「エーゲ海の真珠」「シバの女王」「コンドルは飛んでいく」などがある。

酒匂川(鮎沢川)にかかる吊橋

ヘアピンカーブを下りきると川沿いの道に出る。この道を左折する。川には東京電力の施設があり小さなダムのようになっていて水がせき止められている。上流に発電所がありここはその施設の一部のようだ。ダムの前方に吊橋が見えている。5、6分ほど歩くと右手に先ほどの吊橋が出てくる。長さが150mほどで床が木の板の吊橋だ。

吊橋を渡り谷峨駅に向かう

吊橋を渡りきると道標に「谷峨 15分」と出ている。時計を見ると1時45分だ。谷峨から松田への電車は2時3分発なのだ。あと18分しかない。これには流石に慌てた。田園地帯の中の農道を走り出す。遠くに見えていた3名の若い女性グループに陸橋で追いついた。しかし陸橋を渡った先に標識が無い。今まで要所に有った標識が最後の最後にないのだ。谷峨駅は右か左か樹木に隠れてどこにあるのか見えない。1秒も惜くて慌てていたので地図も見ずに駅とは反対の右方向に走りだした。先に行けば駅が見えると思ったのだ。駅は見えない。振り返ると3名の女性たちも右往左往している。連れが何か叫んで陸橋の所で反対方向を指している。陸橋に戻りそのまま進むと左下に線路と谷峨駅が見えてきた。しかし警報機が鳴って電車が近づいてきている。谷峨は無人駅なので改札は素通りだ。電車は到着したがホームは向こう側だ。遮断機をかいくぐって線路を渡りようやく間に合った。「何やってんの!」と連れに文句を言われた。後で調べたら、普通に歩いてあの電車を逃しても30分ほどの待ち時間だったのだ。ゆっくり行けば陸橋の左下に見える谷峨駅を見逃さなかっただろう。だからあんなに急ぐ必要はなかったと大いに反省した。

コースタイム 歩行3時間30分(休憩1時間30分)距離8km 累積の登り633m 下り-660m
小田急線新松田駅(バス)8:30~9:00大野山登山口9:10→9:40地蔵岩ルート入口→イヌクビリ→11:10大野山12:10→湯触コース→14:02谷峨駅14:03~松田駅・新松田駅


バナースペース

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