高徳院の鎌倉大仏
北鎌倉駅~浄智寺~源氏山~銭洗弁財天~鎌倉大仏~長谷駅のGPS軌跡
鎌倉幕府があった鎌倉時代は148年間あった。(1185年に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡して、1333年に新田義貞が鎌倉を攻略し鎌倉幕府が滅亡するまで
)。それでは今の時代、明治から平成までは何年間だろうか?(明治元年は1868年~大正15年間~昭和63年間~2018年の平成30年まで)。それは150年間である。鎌倉時代は今の明治から平成にかけてとほぼ同じぐらいの、かなり長い時代だったのだ。
鎌倉は標高200mもない丘陵地帯だが、それでも結構山歩きが楽しめる。そして歴史の宝庫ともいえる史跡がコース上にあるのもいい。また梅雨時は眺望も気になるが鎌倉なら天候を気にしないでも楽しめる。そんなことで梅雨時の一日、鎌倉の葛原岡・大仏ハイキングコースを歩いてきた。
北鎌倉駅から鎌倉方向に線路の右側を4分ほど歩くと東慶寺が、更に3分ほど歩くと浄智寺がでてくる。浄智寺総門をくぐり拝観料200円を払い中に入る。浄智寺(じょうちじ)は臨済宗円覚寺派。北条宗政(鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の3男)の妻と子の師時が1281年(弘安4年)ごろに創建したとされる。
浄智寺惣門(惣門は寺院の表門)
浄智寺・茅葺屋根の客殿(書院)
手入れが行き届いた緑豊かな境内は国の史跡にも指定されている。茅葺の素朴な造りの書院とその前は庭園となっており、庭園越しに茅葺屋根を見ることができる。
浄智寺の布袋尊(江ノ島・鎌倉七福神)
浄智寺の順路をたどると、裏手に鎌倉・江の島七福神の1つである布袋尊がある。表情豊かでとても愛嬌がある。「布袋尊のお腹をなでて上げて下さい。元気がもらえます。」と書いた案内板がある。お腹回りや耳たぶが多くの人に撫ぜられたためか黒光りがしている。布袋尊は七福神の中で唯一中国で実在していたことが知られている。布袋尊はこの中国禅僧の布袋和尚を神格化したもので弥勒菩薩の化身ともいわれている。
浄智寺を出て舗装道路を右へ行く。道は突き当り状になりここから左先に山道が続いている。尾根道を20分ほど歩くと日野俊基をまつる葛原岡神社に出る。日野俊基は鎌倉末期の公卿である。1回目は失敗し2回目の倒幕計画も再び発覚して捕らえられ葛原岡で処刑された。明治維新後になると俊基は評価されるようになり、1887年(明治20年)に葛原岡神社が創建された。葛原岡神社を見学して更に進むと右手に日野俊基の墓所があった。ここはパスして先に進む。道なりに進むと源氏山公園直前の左側に化粧坂が出てきた
。試しに下まで降りてまた登り返した。残されているのは80m位でそれより下は舗装されている。滑りやすい部分があるのでハイヒールなどでは降りられない。
古の激戦地の切通し「化粧坂」けわいざか
源頼朝が鎌倉に幕府(現在の鶴岡八幡宮あたり)を開いた大きな理由は三方を山で囲まれ前面が海のため敵の侵入を防ぎやすい地形だったからだ。北部の最高地点は通称鎌倉アルプスと言われる大平山(159m)がある。東には衣張山(120m)が、西にはここ源氏山(93m)の丘陵地帯がある。そして物資運搬や交通のために山や丘などを切り開いて造った道が切通しである。このような地形は外部からの攻撃にも威力を発揮した。こうした鎌倉の出入口にあたる七つの切通しを鎌倉七口という。化粧坂切通しはその内の一つである。
仮粧坂切通しはその昔、藤沢から武蔵方面に抜ける重要な道であった。地名の由来は、討ち取った平家の武将を化粧し首実検した所だからだとか、近くに化粧をした遊女がいたからだとかも言われている。新田義貞が鎌倉に攻め入る際に激戦(1333年の鎌倉攻め)が行なわれた場所でもある。鎌倉幕府はその後滅亡する。
源氏山公園・頼朝像前の広場
源氏山の由来は麓に源氏の屋敷があったからとする説や源頼義・義家父子が奥州遠征の際に、この山の頂に白い旗を立てて戦勝祈願をしたことによるとも言われている。
1966年(昭和41年)に源氏山公園として開園した。
1980年(昭和55年)には源頼朝の鎌倉入り800年を記念して頼朝像が建立された。
源氏山公園・源頼朝公の像
源頼朝(1147~1199)は鎌倉幕府の初代将軍である。源頼朝(当時14歳)は平治の乱に敗れて捕らえられた。平清盛の継母である池禅尼の命乞いにより奇跡的に死罪を免れ伊豆に流された。といっても海の孤島ではなく伊豆の湿地帯(静岡県伊豆の国市の蛭が島公園に史跡がある)だった。そのため流人でもかなり自由な身であった。20年の流人生活の間に北条時政の娘政子と結婚する。1180年に平氏討伐の兵をあげたが石橋山の戦(現神奈川県小田原市、東海道線の早川と根府川の間)に敗れて安房(現千葉県)へ逃れた。ここで平広常や千葉常胤らの来援を得て相模に入り鎌倉に本拠を定めた。1184年弟の源範頼・源義経を西上させて源義仲を討ち、更に1185年には平氏を長門壇ノ浦の戦で滅亡させた。1192年に征夷大将軍となる。
源氏山公園最高地点から南面の眺め
頼朝公前の広場から更に奥に進むと公衆トイレがある。そのトイレの前方に上に登る階段がある。ここを登って行くと小高い平坦地に出た。周囲の展望は良くなく南面が少し開けている程度である。小さな祠などが残されているがほとんど使われていないようだ。標識はないがここが源氏山の最高地点(標高93m)であろう。道は反対側の階段からも降りられるようになっていた。頼朝公前広場を通り元の源氏山公園入口に戻る。道が分岐しているので標識に従い「銭洗弁財天」方面へ向かう。左に下る道を行くと銭洗弁財天が出てくる。
銭洗い弁財天・宇賀福神社入口のトンネル
銭洗い弁財天・宇賀福神社の本宮
銭洗い弁財天・宇賀福神社の鳥居
境内からハイキングコースに戻れそうな気がしたので、売店のおばさんに聞いてみた。すると境内からはハイキングコースには行けないという。そこで元来た道を登る。
ハイキングコースに戻ると秋でもないのに紅葉がでてきた
ハイキングコースに戻ると紅葉している木があった。病気でやられているようにも見えないし、自然な感じの紅葉である。このような種類の木なのかな?浄智寺の庭園でも紅葉した木があったが、もしかするとこれはノムラカエデ(野村楓)かも知れない。ノムラカエデの由来は、本来は人名の野村ではなく濃紫(のうむら)からきた名前のようだ。濃紫楓が野村楓になったようだ。春先から秋までやや紫がかった紅色の葉をつける。カエデ科カエデ属の落葉中高木である。
ハイキングコースからは海が見えた
ハイキングコースからは1か所だけ海が見えるところがあった。材木座海岸や逗子方面のようだ。
ハイキングコースの民家ではニワトリが砂浴び
ハイキングコース中の左側に民家があった。その道をはさんだ向かいの空き地にニワトリが5、6羽いて砂遊びをしている。地鶏の名古屋コーチンかな?メスばかりのようだ。オスは卵を産まないので役立たないからね。
ハイキングコースの山道
ニワトリのいる民家を過ぎると山道になった。しばらく歩くと右手に「樹(Itsuki)Garden この先50m」の看板がでてきた。尾根道を外れて階段を下って行く。ここは森の中のカフェで下に駐車場もあるのでそこからの利用が多いようだ。山の中にも関わらず意外に混んでいて既に若い女性達が5~6名ほど並んでいた。時間がかかりそうなので今回はパスする。元の山道に登り返し先に進む。
ハイキングコースの終点から車道に降り立つ
山道をしばらく歩くと左に下る階段が出てきた。長い階段を下って行くと3名の外国人グループが登ってくるのとすれ違う。(こんな暑いのによく登ってくるものだ!)と自分達も同類なのだが少し感心する。石段を下りきると大仏トンネルの前に降り立った。後で気が付いたのだが山道の右側に鎌倉7口の一つ「大仏切通し」があったのだ。それを見ないで降りてきたのは残念だった。階段を降りてそのまま真っすぐ進む。700mほど歩くと左手に鎌倉大仏の入口が出てくる。鎌倉大仏前の道路は大変な混みようで特に外国人が多い。
高徳院の鎌倉大仏
鎌倉大仏殿の周囲は樹木に囲まれて外の道路からは見えない。まず大きな仁王門をくぐり券売所で200円を払い入場する。ここで手水舎があり手が洗えるようになっている。ここからも大仏はまだ見えない。更に進んで行くと初めて大仏の見える大通りに出る。そうすると大仏の巨大さや荘厳さに改めて驚く。これは大仏を見せるための演出なのだと気づいた。特に外国人などは突然出てくる大仏の姿に「ハー!」とか「ワーォ!」「ウォー!」といった感嘆の声を上げる。外から見えるようだったらこうはならない。やはりアプローチが大事なのだ。
鎌倉大仏は、正式には「国宝 銅造阿弥陀如来坐像」という。この大仏は浄土宗高徳院の本尊である。鎌倉の仏像の中では唯一国宝に指定されており、奈良の大仏(台座を含めた高さ18m、重量250t)と並ぶ日本の代表的な大仏である。仏像の高さは約11.39メートル(台座を含めた高さは13.35メートルでビルの4階建て以上ある)。重量は実測で約121トン。鋳造年は不明だが、推定で1243年(寛元元年)鎌倉時代中期ごろ。仏像の原型の作者は不明だが、鋳造には河内の鋳物師・丹治久友がかかわっていたことが判明する。仏像本体の材質は青銅で、像が造られた当初は表面は金箔で覆われていた模様。仏像の体部は7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けられて鋳造された。像の外からでも中からでもその継ぎ目を確認できる。
帰るには時間があり江の島まで足を延ばして江島神社を見てきた。やはりここも鎌倉に劣らず混んでいる。
江ノ島神社の龍宮城を模した楼門・瑞心門(ずいしんもん)
江の島は何十年振りだろう。以前は車で来たことがあったが今日は江ノ電江の島駅で降り人の流れに沿って商店街を歩く。国道は地下通路をくぐる。 片瀬海岸と江の島を結ぶ橋は1本に見えるが実際は2本で、建造された時期が違う。
車道橋は江の島大橋といい、人道橋が江の島弁天橋で全長389mである。 強い風に吹かれながら江の島弁天橋を渡る。青銅の鳥居をくぐると両側に飲食店や土産物屋が並ぶ仲見世通りだ。
サザエのつぼ焼きや長い行列のタコせんべいの誘惑にも負けずここは通り過ぎる。
赤い大きな鳥居をくぐると目の前に竜宮城のような門が出てくる。 これが瑞心門だ。この左側にエスカレーター乗場がある。料金は大人360円(子供180円)とある。
リュックを背負って今日はわざわざ歩きに来たのだ。エスカレーターに乗る選択はなく(といっても無料や100円位なら使ったかも知れない)、歩いて登ることにした。
因みにこのエスカレーターは「江の島エスカー」という名前だそうだ。 1959年(昭和34年)に日本初の野外エスカレーターとして設置された。 このエスカーは全長106m、標高差46m、全部で3区間、3つの乗場があり頂上までは約5分で到着できる。
小さい子供連れや高齢者にはとても便利だ。
江ノ島神社の辺津宮(へつみや)
今回は残念ながら辺津宮だけお参りをして帰ることにした。辺津宮は1206年源実朝(源頼朝の次男で、鎌倉幕府第3代征夷大将軍となる)が創建した。当初は「下之宮」と呼ばれており現在の社殿は1976年(昭和51年)に新築されたものである。 辺津宮から降りるとき階段を数えたら155段(高低差約30m)あった。
観光客の食べ物を狙う江ノ島大橋のトンビ
江の島はトンビ(鳶)が多い。特に弁当やおにぎり・パンなどを食べていたりすると後ろから狙われる。上空で旋回し狙いを定めて急降下して背後から食べ物を奪っていく。このとき運が悪いと怪我をする場合もある。子供なども狙われやすい。子供連れのいる上空はトンビが乱舞していて急降下してきて時折悲鳴が上がる。昔のことわざに「トンビに油揚げをさらわれる」というのがある。トンビは普段はゆうゆうと空を飛んでいる。が、ひとたび獲物を見つけると空から舞い降りて獲物をさらっていく。このことわざは「大事なものを突然横から奪われて唖然としている様」をいう。トンビは人の餌付けだけが原因ではなく昔からこういう習性があるのだろう。遠くにいるからと安心してはいけない。トンビは突然襲ってくる。だから、どうしても海岸などで食べたいときは傘をさすなどして自衛するしかない。後ろから来るので傘をさせば襲われることはない。「ええっ 傘は持っていないって!」そんなときは食べないことです。
コースタイム(江の島は含まず)歩行2時間20分 距離8km 累積の登り420m 下り-441m
JR北鎌倉駅9:36→9:57浄智寺10:15→葛原岡神社→11:00源氏山公園11:45→11:52銭洗弁財天12:07→13:01大仏トンネル→13:07鎌倉大仏13:29→(休憩・氷)→13:58江ノ電長谷駅~江の島(江島神社散策)