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東京の山・神奈川の山・関東周辺の山を夫婦で「気ままに山歩き」登山・ハイキング・トレッキングの山行記録です。

真鶴半島・真鶴岬~三ツ石海岸真鶴半島・真鶴岬~三ツ石海岸

真鶴半島・真鶴岬~三ツ石海岸 
平成30年(2018)11月14日(水)2名

     

真鶴岬の三ツ石(笠島)

真鶴駅~真鶴岬~真鶴駅のGPS軌跡(クリックで遊歩道詳細図を表示)

真鶴半島(まなづるはんとう)は神奈川県にある小さな半島である。千葉県の房総半島と静岡県の伊豆半島の間にある。更には神奈川県の三浦半島と伊豆半島の間に位置する。真鶴半島の長さは真鶴駅から半島の先端(真鶴岬)までおよそ3kmであり、半島の幅は狭い部分で300m、広い部分で900mほどである。
海岸は高さ20mほどの岸壁が取り囲んでいる。陸地にはマツやクスノキ、シイなどの常緑樹の大木と、シダ類が生い茂る原生林が残されている。真鶴半島を形成した火山活動は約15万年前にあったと考えられる。その頃この半島で複数の噴火活動があり溶岩によって半島が形成された。それで、火成岩の一種である安山岩が本小松石として産出される。

JR東海道線真鶴駅の改札を出ると左手に公衆トイレがある。駅前の道路(国道135号)の地下通路をくぐり更に真鶴岬に伸びる道路(県道739号)を渡る。その先の路地を左折すると荒井城址公園がある。200mほど歩くと公園の入口がある。階段を登り園内を通る。

荒井城址公園入口

荒井城址公園は真鶴駅から徒歩5分ほどの高台にある。11世紀に荒井実継の荒井城があった城跡を公園に整備したもので空堀跡が残る。1987年(昭和62年)に荒井城址公園として整備された。しだれ桜の時期には多くの人が訪れる。 荒井城は「後三年の役」(1083年)に源義家に従って活躍した荒井実継の居城であったと伝えられる。その後、鎌倉時代には荒井氏に代わり源頼朝に仕えた湯河原の有力御家人である土肥氏の持ち城となった。戦国時代には北条氏の烽火(のろし)台として使われたと伝えられている。自然の地形を利用した周囲2kmの谷戸構えの構造であったようだ。

荒井城址公園は真鶴半島ウォーキングコース途中に在るので寄ってみた。時間を掛けて見ていないので特に興味を引くものは無かった。ただ竹林が青々としていたのが眼についた。公園を出て左手の方に進み坂を下ると県道739号に合流する。県道739号は真鶴半島公園線といい半島内を一周して真鶴駅前に戻る道路である。難点は歩道がほとんどなく車には注意が必要だ。ただ時折海が見えりして歩きやすい道ではある。途中、道路の左側の建物でミカンを売っていたので購入する。建物内の無人販売所であった。1袋200円だったが、みずみずしく美味しいミカンである。

中川一政美術館

県道739号を周囲の景色や建物などを見ながら歩いて行く。やがて、お林展望公園なる表示が見えてきた。もっと先に入口があるのかと思い通り過ぎると中川一政美術館の前に出た。今日は水曜日で休館であった。

お林遊歩道の標識

中川一政美術館の先にある道路を渡ると「お林遊歩道」の道標があった。今日の遊歩道の始まりとなる。


お林遊歩道の入口

お林遊歩道の石段を登って行くと三方向を示す標識がでてきた。ここからは次の各遊歩道を歩ける。
参考:真鶴半島・遊歩道詳細図。

  1. お林遊歩道は中川美術館から真鶴岬へ向かう約300mの遊歩道で途中に小鳥の観察小屋がある。
  2. 森林浴遊歩道はお林遊歩道に対して南北方向に伸びる約850mの遊歩道で、琴ヶ浜寄りに灯明山があり「魚つき林」の原生林がある。
  3. 番場浦遊歩道は亀ヶ崎から番場浦駐車場へ海岸線に向かう約450mの遊歩道である。
  4. 潮騒遊歩道は番場浦駐車場から三ツ石海岸を通りケープ真鶴まで行ける約700mの遊歩道である。

番場浦分岐の道標

この分岐を右折して番場浦への森林浴遊歩道を行く。海岸に特有な原生林を眺めながらしばらく行くと車道に出た。車道を左折して10mほど先を右折すると、標石があり番場浦遊歩道に入る。

番場浦遊歩道の標石

やがて下の方に広場が見えてきて車が数台駐車していた。ここが番場浦遊歩道の終点であり、番場浦駐車場なのだろう。広場を進んで行くと右端に潮騒遊歩道の標石が出てきた。ここからが潮騒遊歩道となる。


潮騒遊歩道の標石

少し急な階段を注意しながら下って海岸へと降りる。降りたったところは渚に近く、番場浦が良く見える。ここから海岸線沿いに造られた遊歩道を、崖の近くなども通り三ツ石方向へと歩く。

潮騒遊歩道から見た番場浦

三ツ石海岸の磯


三ツ石海岸の潮騒遊歩道

三ツ石海岸から三ツ石(笠島)

三ツ石海岸の崖

三ツ石海岸の中ほどに樹木があり木陰があった。ここで海を眺めながら休憩する。遠くには伊豆半島が青く霞んで見える。三ツ石方向の岩礁では数人の釣り人が磯釣りをしている。崖の斜面にはツワブキが黄色い花をつけてたくさん咲いていた。街では民家の庭先などによく見かけるツワブキだが、海岸に多く自生する花であることを初めて知った。

海岸の崖に咲くツワブキ(石蕗)

キク科の常緑多年草で主に海辺に多く自生し、低地から山地の日陰などにも多い。名前に「蕗」と付くがフキの仲間ではない。草丈は30~70cm位で10~12月ごろに花が咲く。花の大きさは4~5cm程度で筒状花も舌状花も黄色い。葉の根際から生える葉は円心形で分厚くて艶がある。名前の由来は「葉に艶がある蕗」のようであり「艶蕗」が転訛したものだという。

ツルソバ(蔓蕎麦)の花と実

ツルソバはつる性でタデ科の多年草。暖かい海岸近くに群生し、花期は5~11月頃だが冬でも花を咲かせることがある。長さ1メートルほどになる長いツルを伸ばし、枝先に球状の小さな白色花を多数つける。名前の由来は蔓状になり葉も花もソバに似ているのでこの名前がある。

三ツ石海岸の岩礁で釣りをする人達

三ツ石海岸より三ツ石(笠島)

三ツ石が最も大きく見えるところが延長約700メートルの潮騒遊歩道の終点である。付近にはトイレも設置されている。ここから上へ登る長い階段の途中に「カフェ見晴台」がある。階段を上る途中で三ツ石の全景が眺められる。階段を上りきったところにケープ真鶴がある。

真鶴半島先端の真鶴岬のあたりは三ツ石海岸と言い、この浜辺から約200mに渡って岩礁が続き、その先に3つの巨大な岩が顔を出している。これが名勝三ツ石(正式名:笠島)であり、干潮時には陸続きになり歩いて渡れる。三ツ石は番場浦の方から見ると三つに見えるが、ケープ真鶴側からは二つの岩(上の写真)に見える。三ツ石は初日の出を拝む絶景地点としても知られており大晦日の夜から混雑する。また真鶴半島遊覧船に乗ると海からの三ツ石を眺められる。真鶴半島から三ツ石を見て左の大岩の頂上付近に小さな社がある。左側と真ん中の二つの大岩は「しめ縄」で結ばれている。このしめ縄は1977年(昭和52年)に真鶴町や観光協会が協力して取り付けたそうだ。縄の直径13センチ、長さは37メートルの金属製でその重量は1トンにも及ぶとか。なお、真鶴半島の先端から、三浦半島の先端を結んだ線から北の海域を相模湾と呼ぶ。

ハゼノキ(櫨の木)の実

ハゼノキ(櫨の木)は海沿いの山地に自生するウルシ科の落葉小高木で雌雄異株。葉は奇数羽状複葉で秋に紅葉する。樹皮は灰褐色から暗赤色で樹高は10メートルほどになる。5-6月頃に黄緑色の小さな花を咲かせる。果実から蝋を採取するため別名ロウノキとも呼ばれた。秋に直径5~15mmほどの扁平で球形の果実の表面は光沢があり無毛。果実は初めは緑色だが熟すと淡褐色になる。果皮から得た脂肪で木蝋を作り蝋燭などの原料にする。また樹皮を煎じて染料に用いる。 熟した果実は冬のカラスなどの鳥の高カロリーの餌となり好んで食べる。名前の由来は昔「ハジ」と呼ばれていたものが転訛したといわれている。

赤い実が弾け出るトベラ

トベラ(扉)はトベラ科で2~3mの常緑低木。別名トビラノキで暖地の海岸に生える。花期は4~6月で芳香のある白い5弁の花をつける。葉は互生し枝の上部に集まる。葉は長さ5~8cmの倒卵形または長楕円形の革質で表面は光沢がある。果実は直径1~1.5cmの球形で熟すと3裂し赤い粘液が付着した種子を多数露出する。名前の由来は枝や葉に臭気があり節分に枝葉を、イワシの頭とともに魔よけとして戸口に付けた。そのため扉の木と呼ばれ、これがなまってトベラとなった。

トベラ(扉)の実

階段を上りきって左手に進むと、ケープ真鶴を後ろに見て車道を行くようになる。車道を道なりに進むと道標があり、お林遊歩道に入る。途中左手に野鳥観察小屋を見て遊歩道を登る。少し登ると最初の番場浦分岐の道標の所にでる。ここを灯明山・琴ケ浜方向へ右折して魚つき林の森林浴遊歩道を歩く。

魚つき林と言われる原生林

真鶴半島の先端付近にクロマツやクスノキ・シイなどの巨木が生い茂る「魚つき保安林」がある。江戸時代では明暦の大火(1657年)など度重なる大火災があった。1661年に江戸幕府から木材資源確保の命を受けた小田原藩は領内に15万本もの松苗を植えた。その一部が真鶴半島の灯明山周辺で3年の年月をかけて植林された。それ以降は立入り禁止の御留山となる。明治維新後には皇室御料林となり、1904年(明治37年)に「魚つき保安林」に制定された。1952年(昭和27年)に真鶴町に移管され、県立真鶴半島自然公園や真鶴半島の照葉樹林として県天然記念物に指定されている。そして、今でも畏敬と愛着を込めて「お林 」(おはやし:御林)と呼ばれている。
魚つき保安林は魚群の誘致や漁場保全を目的に育てられてきた森林のことである。一説によると森林の枯葉の養分を含んだ水が海に注ぎ、それがプランクトンの発生を促す。そして、そのプランクトンを求めて魚が集まり豊かな漁場が形成されるというものだ。そんな魚つき林が危機に直面しているという。松食虫の大量発生に台風直撃や交通量の増加などにより木々が半分近くにまで減ってきているのだ。真鶴町では神奈川県の補助金などを得ながら、定期的に松食虫の駆除などを行い「魚つき保安林」を守る努力を続けている。

灯明山(96m)付近の巨木

灯明山は真鶴半島の先端近くに在り、わずか標高96mの山である。しかし海岸から登れば実質96m有るのである。地形図で見ると灯明山が真鶴半島の最高地点である。灯明山の山頂部は平坦で樹林に囲まれている。標識を見逃すと通り過ぎてしまうような地味な山なのである。もちろん周囲は森林なので展望は全くない。1605年頃、この山頂に三間四方(5.4×5.4m)の家を建てた。そして灯明をともして岬を通る船の案内をしたと伝えられており、これが灯明山と呼ばれる由来である。その当時の真鶴半島はカヤトの原(萱原)であり樹木がほとんどなかったようだ。その後この辺りは「魚つき保安林」として植林されることになる。当時は江戸の木材資源確保のためだったが大切に育成され保護された。そのため伐採されることもなく現在に至った。1661年の江戸時代前期の植林から現在までに360年ほど経過した。今では「魚つき保安林」はクロマツ・クスノキ・シイなどの樹齢300年を超える大木が混じる鬱蒼とした原生林となっている。

琴ヶ浜と路線バス

江戸時代からの原生林を見ながら森林浴遊歩道を琴ヶ浜方向に進む。車道に出るので左折する(またはその手前を左折して森の中を歩いても車道にでる)。車道を歩いて行くと海が見えるところがあり、丹沢や大山の山並みが眺められた。更に進むと道はヘアピンカーブとなり、下りきったところが琴ケ浜であった。琴ヶ浜にはバス停があり幾つかの料理屋(食堂)がある。その内のひとつは「うに清」といって店の中で待つ人が多く混んでいた。連れが、ここで食事ができないかと案内係のような人に聞いてみる。何でも今日は予約の人で一杯で無理なようであった。

真鶴港からの丹沢と大山(右)

琴ヶ浜あたりの海岸では磯遊びやスキューバダイビングなどもできるようだ。海岸の道路沿いには高波を防ぐためかコンクリートの防波堤が造られている。そこに階段があり海側の通路を歩けるようになっている。その通路を数百メートルほど歩いていくとなんと行き止まりなのである。上の道路に行く階段は在るのだが柵をして行けないようになっている。最初の入口の所に「行き止まり」と表示してくれればここに来なかったのだ。非常に不親切である。ネクタイをした男性は仕方なく戻っていった。我々は戻るの大変なので柵の脇を通り階段を上る。すると道路に降りる階段にも柵がしてある。やむなくザックをおろし柵の下をくぐり抜けて道路に降りた。気を取り直して丹沢の山並みを見ながら車道を歩く。

平安時代からの貴船神社

貴船神社縁起 貴船神社ホームページより
今からおよそ千二百年ほど昔の夏、真鶴岬の笠島(現在の三ツ石)の沖合に、夜ごと不思議な光が現れ、海面を煌々と照らしていました。ある日「平井の翁」という人が磯辺に出て遥か沖を見渡したところ、光を背にした一隻の楼船が波間に浮かび海岸に近づいてくるので、船内を調べてみると、そこには木像十体余りと、口伝によれば、「この神をお祀りすれば村の発展がある」と記された書状があったとされます。その夜、神は翁の夢に現れ、自らが大国主神である事を告げました。そこで翁は村人と力を合わせて社を建て、村の鎮守の神としてお祀りしたのが、現在の貴船神社の起源と伝えられています。

漁船が停泊する真鶴港

あまり時間がなかったので、貴船神社は鳥居だけを見て車道を更に進む。すると海側にちょっと古めかしい2階建ての建物が出てきた。ここが1階が魚市場で、2階が魚レストランの魚座(さかなざ)なのだ。外階段から上ると入口ドアに「本日休業」と貼ってあった。やむなく魚座近くの他の食堂を探すと、斜め向かいの料理屋の前に写真付きのメニューがあった。当然だがすべて魚料理である。ここは「湊原忠:みなとはらちゅう」と看板があり、店の前に立つ女性が「食事できますよ」というので入ることにした。案内されたのは2階の16畳ほどの畳敷きで、先客は子供連れの夫婦一組だけである。面倒だが登山靴を脱いで上がる。メニューには魚の煮付け定食や焼き魚定食があったが、結局のところお刺身定食を頼んだ。出てきたのは、焼ハマグリ・モズクの酢の物・魚の揚げ物・焼き魚・刺身・漬物にご飯と味噌汁であった。焼き魚や刺身も新鮮で旨った。刺身は5、6切れほどで「お刺身定食」というより「お魚定食」といったところか。

真鶴港と真鶴遊覧船

食事をした「湊原忠」の正面に真鶴半島遊覧船の発着場がある。遊覧コースの所要時間は30分ほどで料金1200円である。遊覧船は発着場を出発してから三ツ石沖でUターンし再び真鶴港へ戻るコースである。

「しとどの窟」は真鶴半島遊覧船の発着場のすぐ近くにある。それは小さい洞穴のように見える。「頼朝は敵の追手から逃れて、こんなところに身を潜めていたのか~」と思う。源頼朝の時代には奥行きが130mもあったそうだ。それが波の浸食により江戸幕末には奥行が11mほどになってしまった。かって、ここは海に面していたのだが関東大震災により土地が隆起して今の高さになったという。また第二次世界大戦時には周辺から多くの小松石が切り出されて現在のような形になったそうだ。よく見ると切り出した小松石で造られたようにも見える。多分「しとどの窟」の名を遺すべく第二次世界大戦後に造られたものなのだろう。

源頼朝が逃れた鵐の窟(しとどの岩屋)

「しとどの窟(いわや)」は源頼朝ゆかりの史跡だが2ヶ所にある。一つは真鶴町真鶴港の近く(写真)で、もう一つは湯河原町北西に連なる城山にある。1180年、石橋山の戦い(JR東海道線早川駅と根府川駅間に古戦場がある)で平家に敗れた源頼朝が、しとどの窟に身を隠し箱根権現別当のもとに逃れた後、岩海岸(真鶴町の岩海水浴場)から安房国(千葉県)へ脱出したと伝えられている。しとどの窟が2か所あるのは源頼朝が房総半島へ渡るまでに幾つかの場所に身を隠したためとされている。「しとどの窟」の由来は追手が洞窟の中を探ろうとした時に「しとど」という鳥が飛び出してきた。それで追手は洞窟に人が居ないものと判断して立ち去り、頼朝は難を逃れたという。しとど(鵐・巫鳥)はホオジロ・アオジ・ノジコなど小鳥の古名である。

江戸時代末期・品川台場礎石の碑

1853年6月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが日本との国交を求めて軍艦4隻で浦賀に来航した。これを契機に江戸幕府は海上防衛強化の必要性を痛感する。そして品川沖の内海に台場を建設することになった。台場とは砲台のことである。当時、御台場と呼ばれたのは幕府に敬意を払い「御」が付いたからである。幾つもの品川台場築造に要する資材は膨大なものであった。大別すると木材、石材、埋立土などとなる。このうち石材について幕府は伊豆・相模・駿河の3国に石材の調達を命じた。石材の切出しや運送に石工を1,000人ほど動員して1854年の冬に完了した。品川台場の石材調達に大きな役割を果たしたのが小松石の産地神奈川県真鶴町である。現在、真鶴港西側に品川台場礎石乃碑(昭和40年:1965年)がある。これは品川第2台場が撤去された後に、撤去した石垣の一部を移して造られたものである。小松石は真鶴町岩地区で産出される安山岩であり「本小松石」ともいう。 小松石は硬くて加工しづらいが、粘り気が強く欠けにくい特徴がある。鎌倉時代より耐久性・耐火性に優れた本小松石が使用されるようになった。江戸時代になると江戸城の石垣の建造などにも使用されたという。

今日はここ真鶴港から岩海岸の方に回る予定であったが、思った以上に時間がかかった。それで予定を短縮して県道真鶴半島公園線を歩いて真鶴駅へ戻ることにした。

真鶴駅~荒井城址公園~三ツ石海岸~琴ヶ浜~真鶴駅のコース断面図

コースタイム 歩行3時間 休憩1時間38分 距離10.3km 累積の登り下り±550m
JR真鶴駅9:46→9:54荒井城址公園→10:10車道→(無人販売所でミカン購入)→中川一政美術館前→10:48お林遊歩道入口→10:52番場浦分岐標識→11:00車道を横切る→11:09潮騒遊歩道入口→(休憩15分)→11:39階段→ケープ真鶴→12:11番場浦分岐標識→12:26車道→12:43琴ヶ浜→13:01貴船神社→魚座→13:08湊原忠(魚料理食堂)13:49→13:59わき道→車道→14:24JR真鶴駅。


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